2008年01月16日

イタリアの歴史069帝政ローマ26(カラカラ帝)

前皇帝セウェルスが211年に亡くなると、
彼の妻ユリア・ドムナの息子である、
カラカラとゲタの兄弟が共同統治の皇帝となります。

しかし、この兄弟は仲が悪く、
やがてカラカラ帝によりゲタは母親の目前で殺害されます。


他にも、カラカラ帝は市民を虐殺したり、
軍事的な独裁の強化も行なったため、
市民からの評価は低かったようです。

その一方で、兵士と共に徒歩で行軍したり、
土木作業にも加わったり、兵士の給与を上げるなどしたため、
兵士からは人気があったようです。


また、彼の功績としては、212年に発布された
「アントニヌス勅令」があります。

これは税収入の増加を狙い、
全属州民に「ローマ市民権」を付与するというものでした。

しかし、それまでは属州民たちはローマ市民権を得るためには
ローマ軍団に入って軍役を果たさなければならなかったのが、
このアントニヌス勅令により、既得権となってしまったため、
ローマ軍の質が低下し、ひいては国防力も下がったと言われます。

因に、「カラカラ帝」というのは、
彼の愛用した外套に由来する通称で、
本名はマルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス、
と言います。

ただ、これだと他の皇帝と混同しやすいので、
「カラカラ帝」と呼ぶのが普通のようです。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「カラカラ」「プブリウス・セプティミウス・ゲタ」の項


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2008年01月10日

イタリアの歴史068帝政ローマ25(セウェルス帝)

セウェルス朝初代皇帝のセプティミウス・セウェルスは、
軍人出身の皇帝であった事もあり、
兵士の給料アップなどの待遇の改善に努めます。

そのため、彼の治世下のローマ軍は、
周辺諸国を圧倒する軍事力を保持していました。

しかし、パルティア遠征と属州メソポタミアの獲得は、
ササン朝ペルシア帝国を活気づかせてしまう原因となり、
軍団の待遇改善は、兵士の退役の抑制を招き、
帝国の財政を悪化させる事となります。

これらのことから、セウェルス帝は
ローマの威信を回復させた一方で、
続く三世紀にローマの混乱の原因を生み出したと言えます。


善かれと思ってやった事が、後々、
帝国の悪化を招くとは思いもよらなかったでしょうね。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「セウェルス朝」「セプティミウス・セウェルス」の項


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2008年01月04日

イタリアの歴史067帝政ローマ24(セウェルス朝開始)

193年の内乱期を治めた
セプティミウス・セウェルスの家系から出た
235年までの4代5人の皇帝を指します。

 セプティミウス・セウェルスは、
 初のアフリカ出身のローマ皇帝です。

彼はマルクス・アウレリウスの治世下の
172年に元老院入りをし、
190年にはコンスルに就任します。

コンモドゥスの治世にパンノニアへ赴任しますが、
続くペルティナクスが殺害されると皇帝を名乗ります。

ディディウス・ユリアヌスが
元老院からの死刑宣告を受けて殺されると、
結果としてローマ皇帝となり、
内乱状態だったローマ帝国を再統合します。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「セウェルス朝」「セプティミウス・セウェルス」の項


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2007年12月29日

イタリアの歴史066帝政ローマ23(内乱期・後半)

内乱期に皇帝の座を争った残りの3人は、
シリア属州のペスケンニウス・ニゲル、
ブリタニア属州のクロディウス・アルビヌス、
パンノニア属州のセプティミウス・セウェルスです。

セプティミウス・セウェルスはローマに進軍して、
193年6月1日にディディウス・ユリアヌスの首をはね、
親衛隊を解雇し、年初に皇帝であった
ペルティナクスを殺した兵士を処刑しました。

その後、ニゲルはセウェルスに敗れ、
当初セウェルスを支援していたアルビヌスは、
195年に自らの皇帝を宣言させます。

しかし、彼も197年にセウェルスに敗れ、
内乱期と呼ばれた193年に5人いた候補者のうち、
セウェルスが皇帝位に残り、
235年まで続くセウェルス朝が始まります。


同じ年に5人も皇帝候補者がいたなんて、
ちょっと信じられないような話ですよね?


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「内乱期」の項

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2007年12月23日

イタリアの歴史065帝政ローマ22(内乱期・前半)

192年の年末にコンモドゥスが暗殺された後、
翌193年は5人のローマ皇帝の候補者が現れ、
「内乱期」と呼ばれます。

元日に首都長官ペルティナクスが皇帝宣言をしますが、
3月28日に親衛隊によって暗殺されます。

同日、親衛隊により「皇帝位」のオークションがされ、
裕福な元老院議員のディディウス・ユリアヌスと、
ペルティナクスの義父であり新首都長官の
ティトゥス・フラウィウス・スルピキアヌスが名乗り出ます。

両者とも兵士の忠誠を買うために高額な支払額を提示し、
結局、ディディウス・ユリアヌスが
年25,000セステルティウスを提示して落札し、
元老院によって皇帝を宣言されます。


この時期に、すでに皇帝位が
オークションにかけられてしまうなんて驚きですね!


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「内乱期」の項

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2007年12月17日

イタリアの歴史064帝政ローマ21(五賢帝時代その後)

父であるアウレリウス帝と共同統治の形で政権につき、
180年より皇帝を務めたのがコンモドゥスです。

彼は「哲人皇帝」と呼ばれた父と違い、
国政を省みず、自ら円形闘技場で剣闘士の試合に参加し、
ギリシア神話の英雄ヘラクレスに扮して、
1万2千人の剣闘士を殺害したと言います。

190年にローマの半分が焼失すると、
その再建部分に自らの名を冠したり、
年の半分の月を自分にちなんだ名前に変えさせるなど、
それらの行いから「暴虐帝」と呼ばれます。

彼は192年12月31日に、
剣闘士の装束で元老院の計画を立てて寝ているところを、
一剣闘士によって暗殺されます。


因に、映画『グラディエーター』は、
彼をモデルにして作られているようですよ!


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「コンモドゥス」の項

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2007年12月11日

イタリアの歴史063帝政ローマ20(五賢帝時代の最後・後半)

共同皇帝だったルキウス・ウェルスが亡くなった後、
マルクス・アウレリウスが単独皇帝となります。

先帝アントニヌス・ピウスが対外政策に力を入れなかったため、
蛮族の侵入や、パルティアの攻撃など、
数々の難問に直面しますが、その問題に果敢に対処しました。

それまでの五賢帝時代は、優れた者を後継者として養子にし、
帝位を継承させるという慣習が存在しましたが、
彼は実子のコンモドゥスを後継者とし、
ここに五賢帝時代は終わりを告げます。

もっとも、それまでの皇帝には法律上の結婚に
基づく実子がいなかったため、
そのような慣習が無かったという説もあるようです。

そして、皇帝たちは後継者を選ぶ際には、
元老院の承認を必要とされ、
アウレリウス帝も実子を選ぶ際には承認を得ています。

一方、アウレリウス帝は「哲人皇帝」と呼ばれ、
日々の思索と哲学を記した『自省録』を著しています。

また、帝国の安定のため、
当時衰えていた伝統の神々の祭祀を復興して、
帝国の精神的紐帯とすることを図ります。

そのため、多神教の礼拝を拒んだキリスト教徒を、
帝国の安定を危うくする存在として迫害しました。


因に、中国の後漢の史書『後漢書』西域列伝の大秦国の記事に、
「大秦王安敦」の使者がきたとの記述がありますが、
これがマルクス・アウレリウス・アントニヌスとされています。

 ※当時の中国ではローマ帝国のことを
  「大秦国」と表記していました。


すでに2世紀頃には東西の大国同士で
使者の往来があったんですね!

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「五賢帝」「マルクス・アウレリウス」の項

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2007年12月05日

イタリアの歴史062帝政ローマ19(五賢帝時代の最後・前半)

五賢帝時代最後の皇帝となったのが、
マルクス・アウレリウス・アントニヌスです。

彼には同じく先帝アントニヌスの養子となった共同皇帝の
ルキウス・ウェルスがいました。

130年に生まれ、詩作と弁論を好んだルキウスは、
154年に32歳の最低年齢を大幅に下回り執政官となります。

161年にマルクス・アウレリウスとともに執政官を務めますが、
この年に先帝アントニヌス・ピウスが亡くなり、
マルクス・アウレリウスが皇帝の座を継ぎ、
ルキウスが共同皇帝となります。

2人は同等の権利を有していましたが、
実際の政務は、121年生まれで年長の
マルクス・アウレリウスが指導的な立場を握っていました。

また、ルキウスは翌年から166年までパルティア戦に従事し、
2年ほどローマで享楽的な生活を続けた後、
169年、ゲルマン人の支族の来襲の迎撃のため出陣します。

同じ年、マルクス・アウレリウスと戦場からローマへ帰還する道中で、
食中毒の症状を呈して床につき、数日後に亡くなります。

この後、マルクス・アウレリウスが
五賢帝時代最後の皇帝を単独で務めます。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「五賢帝」「アントニヌス・ピウス」「ルキウス・ウェルス」の項

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2007年11月29日

イタリアの歴史061帝政ローマ18(五賢帝時代)

先帝ハドリアヌスの養子となり後継者となったのが、
アントニヌス・ピウスです。

 ピウスは元老院から贈られた「敬虔な」という意味の尊称。

ハドリアヌスの信任が厚く、要職を歴任した後、
早世した後継者の後に、妻の甥の遺児2人を養子とすることでした。

 この2人は後に皇帝となります。

138年7月11日にハドリアヌスの後を継いで即位します。

このハドリアヌスは長くローマを不在にしたため、
元老院から不満の声が上がり、記録抹消刑に処されるところを、
アントニヌスが必死に止めたというのが、彼の最初の実績です。

 ピウスの尊称が贈られたのもその高潔な態度からと言われます。

彼は、先帝への不満を反面教師とし、
ローマを不在にすることは無かったのですが、
それが周辺蛮族の発展を許し、後世への禍根を残したと言えます。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「五賢帝」「ハドリアヌス」「アントニヌス・ピウス」の項


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2007年11月23日

イタリアの歴史060帝政ローマ17(五賢帝時代)

先代のトラヤヌス帝は、
たくましい若者たちを随行させていたことが伝わっているように、
男色を好んだため、皇帝位は養子に迎えた
従弟で同郷のハドリアヌスが継ぎます。

ハドリアヌスが継承した時には帝国は最大領域となっていて、
そのために領土の防衛や、各地の反乱への対処など、
先帝の積極策から一転、帝国の消極的な維持に努めたようです。

有名な「ハドリアヌスの長城」もこれを象徴していますね。

官僚機構の整備などの行政改革や、帝国内の視察、
軍紀の改正による軍内部の改革なども行います。

ハドリアヌス自身が用兵術に優れていたこともあり、
ローマ軍は連戦連勝を重ね、軍隊内では一兵卒と変わらぬ生活をし、
戦争では先頭に立って指揮をとったため、
士気の低下にはつながらなかったようです。

また、文化面では、118年にパンテオン神殿の再建に着手しています。

彼も、病床でアントニヌスを養子にし、後継者としています。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「五賢帝」「ハドリアヌス」の項

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2007年11月17日

イタリアの歴史059帝政ローマ16(五賢帝時代最盛期)

五賢帝時代の2人目の皇帝になったのは、
属州ヒスパニア(現スペイン)のイタリカ生まれのトラヤヌスです。

彼は外征に積極的で、ドナウ川を越え、
ダキア(現ルーマニア)を征服し、
一時はメソポタミア地方にまでその支配力を伸ばし、
ローマ帝国の版図は彼の時代に最大となりました。

東はメソポタミア、西はイベリア半島や北西アフリカ、
南は北アフリカ地中海沿岸一帯からエジプト南部、
北はブリテン東南部まで及びました。


内政においてもネルヴァと同様、元老院との協調に努めました。

公共事業の振興や、税負担の軽減などの行政改革を行うなど、
帝国の繁栄に尽力した人物と言えます。

これらの内政・外征の功績を称えて、
元老院から「至高の皇帝(Optimus Princeps)」の称号も贈られ、
それは、当時鋳造された貨幣にも刻まれています。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「五賢帝」「トラヤヌス」の項

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2007年11月12日

イタリアの歴史058帝政ローマ14(フラウィウス朝3)

81年に兄ティトゥスの後を継いだのが
ドミティアヌスです。

彼の治世は最初は穏健に始まりましたが、
次第に、キリスト教徒やユダヤ人などを迫害して暴虐となり、
そのために、死後、元老院から「記録の抹消」をされています。

 ※「記録の抹消」とは、元老院の皇帝弾劾のシステムで、
  この刑に処せられることは極めて不名誉なこと。

  具体的には、皇帝の像の破壊、あらゆる公式記録、
  碑文、通貨からの名前の消去、
  その皇帝の子孫は末代にいたるまで、
  「インペラトル」を名乗る権利を剥奪。

元老院議員や騎士階級の者を度々告発して死刑にしたり、
貴族階級に公然と敵意を示し、
元老院の決議をしばしば無効にしたことなどが、
彼の低い評価につながっている。

強いて言うなら、ライン川防衛線と
ドナウ川防衛線の間をつなげるゲルマニア防壁の建設でしょうか。


彼の最後は、元老院議員や元側近によって計画された暗殺で、
96年に自邸内で殺されています。


彼には跡継ぎがいなかったため、
元老院によって次の皇帝が指名されました。


傲慢な行いをすると、必ず周囲の反感を買い、
不幸な最期を遂げるんですね。。。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「フラウィウス朝」「ドミティアヌス」の項


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2007年11月05日

イタリアの歴史057帝政ローマ13(フラウィウス朝2)

79年にウェスパシアヌスの後を継いだのが、
長男のティトゥスでした。

彼は元老院との関係も良好で、
ローマ市民の間でも人気が高く、
彼が何も良いことをしなかった時には
「一日を失ってしまった」と嘆いたと言われます。

在任中に有名なヴェスヴィオ火山の噴火があり、
ナポリ近郊の都市ポンペイが壊滅、
ローマも3日間延焼を続ける大火災が起きてます。

彼は在位が2年と非常に短いですが、
評価は非常に高く、後に五賢帝により
皇帝の理想像とされたほどでした。


短期間でも善政を行うと、人の心に響くんですねぇ。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「フラウィウス朝」「ティトゥス」の項

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2007年10月30日

イタリアの歴史056帝政ローマ12(フラウィウス朝1)

ウェスパシアヌスを含めて3代の間、
フラウィウス朝と呼ばれる王朝が続きます。


ここで簡単に3代の皇帝の功績などをご紹介。


ウェスパシアヌスは慣習的に元老院に与えられていた
皇帝弾劾権を否定したため、
政権交代は原則的に皇帝の死によってのみ行われるようになり、
そのため、皇帝の暗殺が横行する原因となったと言われます。

74年に有料の公衆便所を設置したことで、
敵対者の嘲笑を受けた際に、
「Pecunia non olet(金は臭わない)」と反論。

 これは金銭に貴賤が無いことを示す文句だそうです。

最後の言葉は、
「かわいそうなオレ、神になるんだろうな…」だとか。

 権力者の思考はよく分かりませんね。。。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「フラウィウス朝」「ウェスパシアヌス」の項


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2007年10月24日

イタリアの歴史055帝政ローマ11(内乱期4)

内乱期3人目の皇帝ウィテリウスに対して、
着々と足場を固めていたのが、
シリア属州でユダヤ人の反乱軍と交戦中だった、
軍司令官ウェスパシアヌスでした。

彼はシリア総督ムキアヌスの支援を得て、
皇帝としての第一歩を踏み出します。

やがて彼を支持する軍団が増え、また、
ローマ帝国の食料生産の半分を担うと言われた
エジプトを支配することでローマ全体の食を支配します。

オリエント一帯を安定させたウェスパシアヌスは、
ムキアヌスの一軍をバルカン半島からローマ攻略に向かわせます。

しかし、ムキアヌスが異民族の侵入に対処するため
ダキアで進軍を止めている間に、
ウィテリウスに恨みを持つ
マルクス・アントニウス・プリムスの軍団がローマを占拠し、
ウィテリウスを殺してしまいます。


その後、ムキアヌスがローマへ無血入城を果たし、
パックス・ロマーナ(「ローマの平和」)の復活を宣言し、
最後にウェスパシアヌスが皇帝としてローマに入り
五賢帝時代までの間、フラウィウス朝と言われる王朝が始まります。

 フラウィウス朝はアウグストゥスの血統とは無縁でしたが、
 ウェスパシアヌスの善政はローマ市民の
 心からの歓迎を受けたようです。

いつの時代も、きちんとした政治を行う
リーダーが求められているんですね。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「内乱期(68年-69年)」「フラウィウス朝」の項


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2007年10月18日

イタリアの歴史054帝政ローマ10(内乱期3)

内乱期2人目の皇帝オトを破ったウィテリウスは、
そのままローマへと入城します。

各軍団の支持を取り付け、
その強大な軍事力を背景としたウィテリウスに対し、
元老院は為す術はありません。

帝位を与えることを即座に認めました。

しかし彼は帝位就任後に、
どのような政治を行うかという明確な方針が無く、
結局、ウィテリウス自身が新たに定めた法律は
一つもありませんでした。

それでも行政面での問題が少なかったのは、
前の世代の人材が随所で活躍していたお陰だと言えます。


当初は動揺もあまり無かったローマも、
次第に治安が悪化し、市民の不信感も募っていきます。

原因としては、ウィテリウスが連れてきた
ゲルマニア兵の素行の悪さや、
前皇帝オトの命令に忠実に従っただけの
軍団兵を処刑したことなどです。

そんなローマの窮状を見て、
新たに帝位に名乗りを上げる者が出ます。

明確な政策を持たないリーダーを持つと、
国民は困りますよね。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「内乱期(68年-69年)」の項


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2007年10月12日

イタリアの歴史053帝政ローマ9(内乱期2)

内乱期1人目の皇帝ガルバがピソを後継者に指名した5日後、
オトは二人を殺して皇帝に即位します。

彼が皇帝に即位する前から、ガルバに対して不満を持ち、
進軍を始めていたゲルマニア総督ウィテリウスは、
ゲルマニア軍団を率いてローマへの進軍を続行します。

ウィテリウスに比べて弱体な軍しか持たないオトは、
ローマ最前線の守りを担うドナウ軍団を呼び戻し、
ウィテリウスと戦います。

オト軍は緒戦に負けてしますが、
誰もこの敗北がこの戦いを決するものとは見ていなく、
まだ挽回する可能性が残されていたにもかかわらず、
オトは自殺してしまいます。

ローマ市民間のそれ以上の流血を回避するため、
戦いの早い段階で自殺したオトに対して、
多くの市民の感嘆を得たと言います。

 『ゲルマニア』や『年代記』などの著作がある
 古代ローマ最大の歴史家とされるタキトゥスは、
 その死に様について、カエサルよりもカトーよりも
 偉大と述べているようです。


「物事の見極め」と「引き際」が肝心ですね!


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「内乱期(68年-69年)」の項


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2007年10月06日

イタリアの歴史052帝政ローマ8(内乱期1)

68年に第5代皇帝ネロが自殺すると、
翌69年には4人もの皇帝が入れ替わり即位しました。

 ローマでは「四皇帝の年」と言われるようです。


1人目はタラコネンシス属州総督でもあったガルバ。

彼は元老院からの要請を受けてローマへ行くが、
自身を支持しない地域に罰金を科すなどして支持を失い、
ローマ帰還後は、ネロの改革を無効とし、
重要人物の支持を失った上、陰謀を恐れるあまり、
元老院議員なども処刑するようになります。

やがてガルバは自身の支持基盤の弱いことを自覚し、
人格者として知られたピソを養子にして後継者と発表します。

しかし、これに落胆したのが、
一貫して彼の協力者であったルシタニア総督オトでした。


いつの時代も後継者選びは難しいようですね。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「内乱期(68年-69年)」の項


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2007年09月30日

イタリアの歴史051帝政ローマ7(暴君ネロの死)

60年代の妻や側近への自殺の強要、
64年のローマ大火とキリスト教徒迫害、
こういったことから、次第にネロは暴君と見られるようになります。

そして68年、属州で反乱が勃発し、
ついには元老院で「国家の敵」としての宣告を受け、
ネロは自殺します。

彼の死によってユリウス・クラウディウス朝は断絶し、
ローマは戦乱の時期を迎えます。

最後にネロの人となりを表すエピソードを簡単にご紹介します。

・オリンピア競技に出場し、大胆な不正を行い優勝。

・かなりの宝石マニアであったらしく、
 おびただしい宝石で身の回りを飾り立てる趣味があったようです。

・無類の鳥類マニアでもあり、
 特にオウムやインコの類いに目がなかったようです。

  飽きてしまうと殺し、食べてしまったようですが。。。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ネロ」の項


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2007年09月24日

イタリアの歴史050帝政ローマ6(暴君ネロとローマ大火)

59年に実母アグリッピナを殺害したネロ。

その後、ネロは妻オクタウィアと離縁し、再婚します。

 オクタウィアも62年に自殺を強要されます。

この頃には2度目の横領の咎で告発されたセネカが、
ネロに引退を申し出ていますが、
彼も65年にネロ暗殺の陰謀に加担したとして、
自殺を命じられます。


こうした経緯があった後、64年にローマで大火災が起きます。


この火災によりローマ市内のほとんどを焼き尽くされ、
多数の死傷者や被災者が出ました。

ネロはこの火災に対して真剣に対処しましたが、
復興の際に、広大な黄金宮殿の建設を行ったため、
その用地確保のために放火したという噂が絶えませんでした。

さらに、ネロの命によって放火されたとの流言に対しては、
当時の新興宗教であったキリスト教の信徒を放火犯として処刑します。

この処刑が、ローマ帝国による最初のキリスト教弾圧とされ、
キリスト教世界における、ネロの「暴君」としてのイメージが
構築されていくことにつながっていきます。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ネロ」「ローマ大火」の項

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2007年09月18日

イタリアの歴史049帝政ローマ5(暴君ネロの誕生)

5代皇帝となったネロは、当初は名君と言われていました。

それは家庭教師でもあり、高名な哲学者セネカや、
親衛隊長官の補佐を受けてのものでした。


しかし、数年後にはその善政が崩れ始めます。

原因の1つとして考えられるのは、
側近と彼の母親アグリッピナとの緊張関係。

 もともとネロが皇帝に就いたのも、
 母親の手助けがあったからでした。

ネロが席に着く時に彼女が隣に座っていたのを、
セネカが諌めたりしています。


次第にネロも母親の干渉を疎ましく思うようになり、
妻オクタウィアと離縁し、再婚しようとした際に、
彼女と対立し、殺害してしまいます。

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ネロ」の項


ネロの母親は今で言う、子どもへの過干渉だったのかもしれませんね。


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2007年09月12日

イタリアの歴史048帝政ローマ4(ローマ帝政初期)

初代皇帝アウグストゥスが亡くなった後、
養子であったティベリウスが後を継ぎます。

その後約100年間を「ユリウス・クラウディウス朝」と言います。

その成立過程や、継承過程は複雑なのでここでは省きますが、
様々な理由から帝位が実子に継承された例がありません。


政治面では、彼ら世襲皇帝たちは、
実質的にはローマ帝国の統治者(君主)でしたが、
表面上は、昔ながらの共和政を尊重して、
「元首」としてふるまいました。

 これを「プリンキパトゥス(元首政)」と言います。

彼らが即位する時には、軍隊が忠誠を宣言したあと、
元老院が形式的に新皇帝を「元首」に任命しました。


こうして継承されてきたユリウス・クラウディウス朝ですが、
最後は、「暴君」として名高い5代皇帝ネロで途絶えます。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ユリウス・クラウディウス朝」の項


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2007年09月06日

イタリアの歴史047帝政ローマ3(アウグストゥスの後継者)

紀元2年、アウグストゥスは元老院から
「国家の父」(pater patiae)の称号が与えられます。

ここにアウグストゥスは皇帝としての権威を確立したのです。


彼はその権力が確固たるものになると、後継者問題に取り組みます。

彼には前妻との間にもうけた一人娘ユリアがいました。

彼女を一度、姉の息子に嫁がせますが、
やがて彼が亡くなったため、自身の腹心アグリッパと再婚させます。

二人の間には後継者候補が生まれますが、
候補となっていた二人は相次いで亡くなってしまいます。

そこで紀元4年、その子(アウグストゥスの孫)の
末子アグリッパ・ポストゥムスと、
血のつながりは無いものの、妻リウィアの前夫との子で、
名門クラウディウス家の後継者ティベリウスを養子とします。

やがてアグリッパ・ポストゥムスは性格上の問題で追放され、
ティベリウスが明確に後継者とされました。

しかし、アウグストゥスは自分の血筋にこだわっていたとされ、
アグリッパ・ポストゥムスを死の直前に極秘に訪問したとされます。

 いつの世でも、やはり「自分の血筋に後を継がせたい」
 という想いはあるんですね。


紀元14年、アウグストゥスは体調不良で崩御します。

その最後の言葉は、
「私は人生という喜劇を演じきった。
 私を喝采で送ってくれ」であったと言います。

彼の遺灰はアウグストゥス廟に葬られ、
彼はやがて神格化されていきます。


参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「アウグストゥス」の項


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2007年08月31日

イタリアの歴史046帝政ローマ2(帝政ローマ初期)

帝政ローマの開始時期については諸説ありますが、
ともかくアウグストゥスは実質的なローマの唯一の統治者となります。

そして彼の後継者たちもそれにならい、
代々「アウグストゥス」の称号を名乗ることで、
「帝政」は既成事実となっていきました。

 因に、のちに「アウグストゥス」は、
 「皇帝」を示す称号の一つになります。


その後、彼はカエサルの暗殺を教訓として、
建前上は徹底して権力者であることを避けます。

あくまでも表面上は元老院を重視しているように見せ、
自分が行っていることの真の狙い(帝政の確立)から、
目をそらせるような政策を展開していきます。


「8月の英語名Augustは、ローマ皇帝Augustus
(アウグストゥス)に由来」するそうですよ!

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「アウグストゥス」の項

それほど偉大な存在であることが分かりますね。


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2007年08月25日

イタリアの歴史045帝政ローマ1(帝政ローマの誕生)

オクタヴィアヌスによって再びローマ世界は統一されます。

その後、前27年1月13日、オクタヴィアヌスは元老院において、
全特権を返上し、共和政復活を宣言します。

これを聞いた元老院は喜びますが、
返上した特権とは、三頭政治権などの非常時大権であり、
すでに有名無実化しているものばかりでした。

その後、1月16日に、元老院は満場一致でオクタヴィアヌスに
「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を奉じ、
ローマの全権を掌握するよう求めます。

これをオクタヴィアヌスは何度か辞退した上で承諾しますが、
一度権力を返還し、元老院により再び譲渡される形をとったことは、
彼の慎重な性格を表していると言えます。

ここに共和政は完全に終結し、古代ローマは「帝政」に移行します。


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2007年08月19日

イタリアの歴史044共和政ローマ37(第二回三頭政治の崩壊)

前36年、三者の確執が表面化し、レピドゥスがシチリアで蜂起し、
オクタヴィアヌス打倒を図りますが失敗し、失脚します。

残ったオクタヴィアヌスとアントニウスは、
アントニウスの妻と弟が蜂起したり、
アントニウスが後妻のオクタヴィアヌスの姉のオクタウィアを離縁し、
プトレマイオス朝エジプトのクレオパトラ7世と結婚したことなどから、
次第に対立を深めていきます。

そして前31年、オクタヴィアヌスらが率いる海軍が、
アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラ連合軍を破ります。

二人は自殺し、プトレマイオス朝は滅びます。

前29年、ローマに凱旋したオクタヴィアヌスは、
「プリンケプス(第一市民)」の称号が与えられます。

この「プリンケプス」とは、もともとは元老院内での
第一人者を表す称号として使われていましたが、
帝政においては、皇帝が全てのローマ市民の中での
第1の立場にあるという意味になります。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「アウグストゥス」の項参照

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2007年08月13日

イタリアの歴史043共和政ローマ36(第二回三頭政治)

第二回三頭政治はカエサル暗殺後、
ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌス、
マルクス・アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥスの
いずれもカエサル派の3人によって成立します。

カエサルの遺言で後継者とされたオクタヴィアヌス、
カエサルの配下でガリア戦争などで活躍したアントニウス、
カエサルの副官で最高神祇官のレピドゥス。

この三人は国家再建三人委員会に就任し、
政敵キケロ、暗殺者ブルートゥスなどの、
共和政派の有力者を次々と排除していきます。

この三頭政治体制は、市民集会によって認定された
正式な国家機関でしたが、元老院・共和派に対抗するために組んだ
一時的な同盟関係に近かったため、政敵を排除し終わると、
三者は次第に敵対するようになっていったのです。


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2007年08月07日

イタリアの歴史042共和政ローマ35(カエサル暗殺・後「ブルートゥス、お前もか!」)


そしてついに前44年3月15日、カエサルは暗殺されます。


その際に発したとされる有名な言葉、
「ブルートゥス、お前もか!(「Et tu,Brute!」)」ですが、
これはイギリスのシェークスピアの戯曲
『ジュリアス・シーザー』の中のセリフです。

 実際は言っていないという説もあるようです。

通常、これは暗殺者の1人マルクス・ユニウス・ブルートゥスを
指すとされていますが、もう1人のブルートゥス、
デキムス・ユニウス・ブルートゥスであったという指摘があるようです。

彼はカエサル配下の有力な将軍で、
相続順位第2位に指名されていたほどの人物でした。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「ガイウス・ユリウス・カエサル」の項

有名なあのセリフは、もしカエサルが本当に発していたとしたら、
腹心中の腹心に裏切られたと分かった時に、
発した言葉なのかも知れませんね。

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2007年08月01日

イタリアの歴史041共和政ローマ34古代ローマ(カエサル暗殺・前)

共和政の改革に着手したカエサルは、
まず、元老院への権力集中を防ぐことを考え、
そのために属州民に議席を与えます。

ついで、民会や護民官を単なる追認機関とすることで、
自ら就任した終身独裁官(ディクタトル)に権力を集中させます。

この終身独裁官に権力を集中させる仕組みは、
「元首制」として、後のオクタヴィアヌスに継承され、
「帝政ローマ」誕生の基礎となります。


しかし、こうしたカエサルの権力集中に
危機感を抱く者たちがいました。

それがかねてから元老院議員たちに
カエサルへの陰謀計画への加担を依頼されていたブルートゥスらです。


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2007年07月26日

イタリアの歴史040共和政ローマ33(「来た、見た、勝った」)

エジプトと友好関係に入った後、小アジアへ派遣していたカルウィヌスが、
ポントス王国のファルナケス2世に敗れたという報告が
カエサルのもとに届きます。

そこでカエサルは、前47年、エジプトを出発し、
ゼラの戦いでファルナケスを破ります。

この時にローマにいる腹心ガイウス・マウィウスに送った報告が、
有名な「来た、見た、勝った(Veni vidi vici)」です。
 ※出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

その後、地中海世界を平定してローマに凱旋したカエサルは、
市民に熱狂的に歓迎され、任期5年の独裁官に任命され、
ローマ世界の最高権力者となったのです。

そうして支配権を確かなものとしたカエサルは、
共和政の改革に着手するのです。


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2007年07月20日

イタリアの歴史039共和政ローマ32(カエサルとクレオパトラとの出会い)

カエサルが上陸したとき、エジプトのプトレマイオス朝では、
王位をめぐって争いが起きていました。

カエサルは、先王の子であるクレオパトラ7世と同盟を組み、
女王の側に立ち政争に介入します。

その結果、カエサルとクレオパトラは政争相手を破り、
クレオパトラが実権を握り、
エジプトはローマの同盟国となったのです。

この時、カエサルがクレオパトラ側についたのは、
彼女の美貌に惑わされたから、という説がありますが、
実際には、彼女と争っていた一派が、
ローマ的だったことが理由として考えられています。

でも、クレオパトラは自らを絨毯にくるませて、
カエサルのもとへ贈り物として届けさせたりしているし、
古代ローマ時代の歴史家プルタルコスによれば、
複数の言語に精通していたようなので、
人を惹き付ける魅力があったのかもしれませんね。


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2007年07月14日

イタリアの歴史038共和政ローマ31(ポンペイウスの死)

前49年に2回目の執政官に当選したカエサルは、
軍を率いてポンペイウスのいるギリシアへ向かいます。

数で劣るカエサル軍は、
一度はポンペイウス軍を包囲しようとして失敗しますが、
前48年のファルサルスの戦いでは優れた戦術により圧勝します。

敗れたポンペイウスはエジプトに逃亡を図りますが、
プトレマイオス朝の都、アレクサンドリアに上陸しようとした際に、
プトレマイオス13世の側近の計略により、
迎えにきた船上で殺害されます。

その数日後、後を追いかけてきたカエサルが
アレクサンドリアに到着します。

そこでポンペイウスの死を知ったカエサルは、
軍勢を伴い上陸します。

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2007年07月08日

イタリアの歴史037共和政ローマ30(ローマの内乱)

前49年、元老院はカエサルのガリア属州総督の解任と、
本国召還を命じる最終勧告を発します。
(事実上の非常事態宣言)

それに対し、カエサルは同志の護民官がローマを追われたことを名目にし、
ローマ法により軍を率いて渡ってはならないとされていた
ルビコン川を越えます。


この時にカエサルは、有名な言葉、
「賽は投げられた」を残します。

因に、一般的な全文は、
「ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければわが破滅。
(兵士たちを振り返り)進もう!神々の待つところへ!
我々を侮辱した敵の待つところへ!賽は投げられた!」です。

 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    「ヤクタ・アーレア・エスト」の項より

ルビコン川を渡ったカエサル軍の行動は素早く、
対するポンペイウスはローマにいたために軍を編成することが出来ず、
ローマおよびイタリア半島を放棄します。


ポンペイウスが自身の勢力基盤であるギリシアで、
軍備を整えることにすると、
多くの元老院議員が彼に従いローマを出て、ギリシアへ去りました。

こうしてカエサルはローマの実質的な支配者となったのです。


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2007年07月02日

イタリアの歴史036共和政ローマ29(カエサルのガリア遠征)

前58年、カエサルはガリアを任地とする属州総督に就任します。

そこから数年間、カエサルは諸部族との戦いに勝利し、
ローマでの名声を高めます。

 因に、その時のガリア遠征について、
 カエサルは自ら『ガリア戦記』に記しています。


この時の長期間の遠征を共にした兵士たちは、
次第に「ローマのため」よりも、
「カエサルのため」に忠誠心を持つようになったと言われます。

また、この遠征により実力を蓄えたカエサルに対して、
ローマの共和派の彼に対する警戒心を強めさせ、
共和派側からも内乱を誘発させかねない強攻策をとらせることになります。


カエサルがガリア遠征をしていた前53年、
パルティア王国攻略に出ていた三頭政治のメンバーの1人、
クラッススの軍が壊滅し、彼も戦死してしまいます。

これにより三頭政治は崩壊し、
元老院派に取り込まれたポンペイウスと、
カエサルとの間に対立が生まれます。


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2007年06月26日

イタリアの歴史035共和政ローマ28(第一回三頭政治)

マリウスとスッラの死後は、一時的に共和政が平常になりましたが、
やがて次の政治体制に移る時がきます。

スパルタクスの反乱を鎮圧したマルクス・リキニウス・クラッスス、
執政官を目指すガイウス・ユリウス・カエサル、
そして元老院の対応に不満を持つグナエウス・ポンペイウス・マグヌス、
この3人が前60年に第一回三頭政治が始まります。

カエサルは民衆から絶大な支持を得ており、
ポンペイウスは総司令官を経験したことから軍事力を背景に持ち、
そこに経済力があるクラッススが加わったのです。

この3人が手を組むことにより、
当時、強大な政治力があった元老院に
対抗しうる勢力を形成できたわけです。


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2007年06月20日

イタリアの歴史034共和政ローマ27(スパルタクスの反乱・後)

前73年、剣闘士養成所から脱走した
トラキア人のスパルタクスは同調した奴隷たちと、
ナポリ近郊のヴェスヴィオ山のカルデラに逃げ込みます。

その後、彼らがローマの鎮圧部隊に勝利したことで、
それを見た周辺地域の奴隷が集まり、
反乱軍の規模は数万人規模に膨れ上がりました。

何度か鎮圧のためにローマ軍が差し向けられますが、
いずれも撃破していきます。

やがて、当時「ローマの富の半分を所有する」と言われた大富豪
マルクス・リキニウス・クラッススが、一度は敗れながら、
前71年、スパルタクスの反乱軍を包囲します。

その包囲網を突破しようとする戦闘の中で、
スパルタクスは戦死します。

強力な指導者を失った反乱軍は、北へ逃れますが、
ポンペイウス軍によって壊滅させられます。

反乱に関わった奴隷たちは捕虜となり、
アッピア街道沿いに、生きながら十字架刑とされました。

こうしてスパルタクスの反乱は終息しましたが、
その後、奴隷の待遇は向上したと言われています。


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2007年06月14日

イタリアの歴史033共和政ローマ26 (スパルタクスの反乱・前)

同盟市戦争の前後は「内乱の1世紀」と呼ばれ、
対外戦争と対ローマ反乱が続きました。

その中の一つに前73〜71年にイタリア半島で起きた
「スパルタクスの反乱」があります。

それ以前にもシチリア島の奴隷による大規模な反乱があり、
それに続くものとして第三次奴隷戦争とも言われます。

この頃のローマ共和国は領土拡大のために対外戦争が続いており、
ポエニ戦争、マケドニア戦争、ミトリダテス戦争など、
戦場は拡大し、その期間も長期化していました。

こうした戦争の中心を担っていたのは、
ローマ市民権をもつローマ市民で構成された重装歩兵でした。

彼らの多くは国家の経済的基盤を支える
中小自作農民でもありましたが、
従軍期間が長引くにつれて農業を続けることが出来なくなり、
やがて土地を手放さざるを得なくなりました。

そういった土地を富裕層が買い占めて大土地所有者となり、
そこで働かされていたのが征服地から調達した奴隷でした。

こういった大土地所有制をラティフンディウムと言います。

そこでは奴隷は人間的な扱いをされないことが多く、
そういった奴隷の中でも「剣闘士奴隷」と呼ばれる一群の中から、
彼らを率いてローマに反乱を起こしたのが「スパルタクス」でした。

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2007年06月08日

イタリアの歴史032共和政ローマ25(スッラの独裁と共和政の限界)

やがてローマを奪還したスッラは無期限の独裁官に就任し、
元老院の権力強化と軍政改革を断行します。

民衆派が恐れていたように、敵対した民衆派の粛正を行います。

これにより、マリウスが行った虐殺よりも
さらに多くの人が処罰・処刑されました。

その処罰者名簿には、有名なカエサルも名を連ねていましたが、
彼は、条件付きで処罰対象から外すという条件を拒否し、
小アジアへ逃亡し、スッラが死ぬまでローマには戻れませんでした。


一連の改革を終えたスッラは無期限の独裁官を突如辞任し、
政界を引退して、ローマから離れた別荘で余生を過ごしました。

彼は、民衆派による独裁制が二度と起きないように、
独裁官となって元老院の権限強化などを行いました。

独裁制を防ぐためになった独裁官となったというのは、
共和政が限界に近づいていたことを意味していました。

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2007年06月02日

イタリアの歴史031共和政ローマ24(マリウスとスッラの抗争・後)

スッラがローマを発ったところへ兵を率いたマリウスが帰還し、
再びローマは民衆派のものとなります。

マリウスはスッラ派の人々だけではなく、
自分の追放に反対しなかった、
という理由で元老院議員たちまでも処刑します。

スッラ派を壊滅させて7度目の執政官に就任したマリウスは、
その直後に亡くなってしまいます。


ミトリダテス討伐をしていたスッラは、
前83年に講和を結んでイタリアへ遠征軍を率いて戻ってきます。

しかし、上陸してからローマへ戻るまでは、
スッラによる報復を恐れた民衆派の必死の抵抗にあい、
2年の歳月を要しました。


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2007年05月27日

イタリアの歴史030共和政ローマ23(マリウスとスッラの抗争)

ここまで見てきた「同盟市戦争」など、
対外戦争と対ローマ反乱の続いた前100年前後の約1世紀を、
「内乱の一世紀」と呼びます。

この時期には、有能な軍事指揮官が執政官として選ばれ、
マリウスの軍政改革が行われたことなどにより、
兵士が軍事指揮官の私兵となることを招きました。

この平民派のマリウスと対決したのが、
閥族派のノルキウス・コルネリウス・スッラ(スラ)でした。

前88年のミトリダテス戦争に執政官として、
軍事指揮権を与えられていたスッラに対し、
それをよく思わないマリウスは指揮権を奪います。

これを聞いたスッラは与えられた軍勢を率いて
ローマに攻め入ります。

当時のローマには常駐の軍隊は存在していなかったため、
あっさりマリウスらは敗れ、ローマは制圧されてしまいます。

マリウスはローマを脱していましたが、
スッラはマリウスら民衆派を「国賊」とします。

その後、スッラはギリシアまで攻め込んできていた
ミトリダテス軍討伐のためローマを発ちます。

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2007年05月21日

イタリアの歴史029共和政ローマ22(同盟市戦争・後)

自治を保障されていた同盟市がなぜ戦争を起こしたか?
 
それは、マリウスが軍政改革をした後も、
兵力の供出が義務づけられたままだったため、
ローマ市民権を要求するようになったのです。
 
その要求をローマが拒絶したため、
ローマに対して反旗を翻す同盟市が出てきたのでした。
 
前91年から始まったこの戦争は、前90年にローマが、執政官の
ルキウス・ユリウス・カエサル(有名なカエサルの伯父)に
各勢力にローマ市民権を与える法案を出させます。
 
この法案が可決されてからは戦線は縮小し、
前89年には事実上終結します。
 
この結果、イタリア各地の都市国家は
ローマを構成する地方都市となり、
ローマも都市国家ではなくなり、領域国家となります。
 

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2007年05月15日

イタリアの歴史028共和政ローマ21(同盟市戦争・前)

マリウスの軍政改革によって、
ローマ市民は兵役から解放されましたが、
逆に、イタリアの同盟諸都市の市民は
兵役が義務づけられているという不公平が生じてしまいました。

もともとローマが持つ諸都市に対する優越は、
ローマ市民兵が最も犠牲の出る中核を担っていたからで、
軍政改革によりそれが無くなったため、
同盟諸都市の兵がその任務に就くようになり、
不満が生じていたのです。


そもそもこの「同盟市」とは、イタリア各地の都市国家が
ローマと同盟関係を築くことで構成され、
互いに同盟関係を結ぶことは禁じられていました。

そして、各同盟市はローマの影響を受けるものの、
それぞれ自治を保障されており、
対外的な戦争などを通じて強化されていました。

それがどうして戦争につながったのか?

それは次回に。

 
 
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2007年05月09日

イタリアの歴史027共和政ローマ20(マリウスの軍政改革)

グラックス兄弟の死後に現れたガイウス・マリウスは、
前119年、初めて護民官に選出されます。

その後、前108年に勃発したユグルタ戦争に
副将として参戦したマリウスは、
戦争の早期終結の公約を掲げて執政官に立候補し、
民会により選出されます。

執政官となったマリウスは、軍政改革を行います。

それまでのローマ軍は、
ローマ市民権を持つ者により構成されていましたが、
度重なる戦争により、兵役を担えるだけの資産を持った
ローマ市民が失業者となったため激減していました。

その状態を改善するためマリウスは、
資産の多寡によって兵役の義務を負わせる制度を止め、
ローマ市民と同盟諸国都市からの志願兵を募ることにします。

ローマ市民権を持たない人でも
兵士となることが出来るというこの改革は、
ローマに流入していた失業者にとって収入源となるとともに、
一家の働き手をとられていた中小の自作農にとっては、
兵役から解放されることになり、一石二鳥の効果がありました。

しかし、これが後に同盟諸都市の反乱を
引き起こす要因の一つとなります。


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2007年05月03日

イタリアの歴史026共和政ローマ19(グラックス兄弟の改革・後)

兄の後を継ぎ、弟のガイウス・センプロニウス・グラックスが、
前123年に護民官となります。

彼は騎士階級を味方に付けて元老院に対抗します。

穀物法により貧民を救済しますが、
ローマ市民権の公布で紛糾し、
反対派により前121年に自殺に追い込まれてしまいます。

兄のこともあり、元老院のグラックス派の弾圧は、
元老院最終勧告により、軍隊まで出動しました。

しかも、この弾圧では前回よりも多くの支持者が殺され、
責任を問われた者もいないという有様でした。

彼らの死後も、彼らの意志を継いで改革を行う政治家が続出し、
それはやがてローマ政界に閥族派と平民派の
対立を生み出すことになります。

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2007年04月27日

イタリアの歴史025共和政ローマ18(グラックス兄弟の改革・前)

平民たちの不満を受け、この状況を打開するために、
グラックス兄弟による改革が行われます。

この背景には、度重なる戦争により中小農民が疲弊し、
属州の増加により安価な穀物が流入したことによる、
中小農民の没落があります。


まず兄のティベリウス・センプロニウス・グラックスが、
前133年に護民官となり、前367年に制定されていた
リキニウス・セクスティウス法を復活させます。

これにより貴族らの大土地所有を制限して、
没落した無産市民にその土地を再分配し、
自作農を生み出すことで社会改革を目指すものでした。


しかし、自分たちの権益を侵されることにるなる
元老院の反発を受けます。

その後、その法律を平民集会で可決させたため、
ティベリウス・グラックスは、保守派の人物たちにより、
カピトリーノの丘において、
多くの支持者とともに殺害されてしまいます。

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2007年04月21日

イタリアの歴史024共和政ローマ17(属州の増加と共和政の変質)

西方のカルタゴと戦っている頃、
ローマは同時に東方のマケドニアとも
数度にわたる戦争をしていました。

そして、ほぼ同時期にマケドニアを滅ぼし、
ローマの属州とします。

この「属州」という仕組みは、
納税義務を課し、その徴収のために総督を派遣しますが、
その都市の自治を尊重するというものでした。

やがて属州が増加してくると、
そこから安価な穀物がローマに流入し、
急激な人口増加と農民の没落を招きました。

それは、この頃には長年にわたる戦争により、
農民たちは自分の農地から引き離され、
作物も属州からの安価な穀物により売れないためでした。


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2007年04月15日

イタリアの歴史023共和政ローマ16(第三回ポエニ戦争とカルタゴの滅亡)

第二回ポエニ戦争後の、
カルタゴに対するローマの要求は、
カルタゴの良家の子息300人を
ローマへ人質に差し出すというものでした。

しかし、そのすぐ後に、全ての武器の引き渡しを要求し、
さらに、それが終わったあとに、
カルタゴの町を焼き払うので、
海岸から10マイル内陸へ移るように、という
海洋国家であったカルタゴには受け入れがたい要求でした。

これに強い不満を持ったカルタゴは、
ついに前149年にローマと開戦します。

これが最後となる第三回ポエニ戦争です。

3年に及ぶ包囲戦の後、前146年春、
カルタゴは多大な戦死者と餓死者を出し陥落します。

ローマはカルタゴの町を跡形もなく焼き払い、
残った住民は全て奴隷として売られていき、
ここにカルタゴは消滅します。

因に、カルタゴの復活を恐れたローマは、
カルタゴ周辺に、再び作物が育つことの無いように、
塩を撒いたとされますが、それを裏付ける記録はありません。


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2007年04月09日

イタリアの歴史022共和政ローマ15(第二回ポエニ戦争その後)

第二回ポエニ戦争により、ローマとカルタゴは
双方ともに多大な国力を消耗しましたが、
貿易の繁栄によりカルタゴが次第に国力を取り戻します。

これを見たローマ人の中には、
またカルタゴが襲撃してくるかもしれない、
と思う者もいました。

その国民感情を利用して、主戦派の大カトーは、
元老院での演説の際には、それがどんな内容でも最後は、
「ところで、カルタゴは滅ぼされなければならない」
と締めくくったほどでした。


やがて、カルタゴは賠償金を繰り上げて完済します。

カルタゴは賠償金を返済したことで、
ローマとの講和条約は満了したものと考えましたが、
ローマの方はその効力は永続的なものと考えていました。

その頃、カルタゴは隣国のヌミディアと境界紛争が起きており、
講和条約により、その度にローマの元老院に仲裁を仰ぎますが、
その裁定は同盟関係にあるヌミディアに有利なものばかりでした。

それに業を煮やしたカルタゴは、
ローマの同意を得ずに兵を招集し、
ヌミディアと開戦しますが敗れ、
今度はヌミディアへ賠償金を支払うことになります。

しかし、これを見たローマは、条約違反だとして、
カルタゴに対して高圧的な要求を出していきました。

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2007年04月03日

イタリアの歴史021共和政ローマ14(第二回ポエニ戦争とハンニバル・後)

やがて前210年に大スキピオが新司令官としてヒスパニアに到着し、
それまでローマが失った土地を回復していきます。

その後、前206年までに、カルタゴ軍を各地で撃破し、
ヒスパニアの征服を完成させます。

ローマに戻ったスキピオは、必要な年齢に達していないにも関わらず、
その英雄的功績から、特例として執政官に選出されます。

そして派遣されたシチリアで軍隊を編制し、
前204年、前執政官(プロコンスル)として北アフリカへ渡り、
カルタゴと組むヌミディアと戦い、これを破ります。

これを受けてカルタゴはハンニバルを呼び戻し軍を再編成させ、
前202年、ここに両軍が対峙するザマの戦いが起こります。

結果、これまで無敗を誇ったハンニバル軍が壊滅し、
カルタゴはローマに和平を申し入れ降伏します。

ローマはカルタゴに対し同盟関係を築きますが、
カルタゴは海外領土を失い、軍事力を大幅に削減され、
莫大な賠償金をローマに支払うというもので、
事実上の従属関係でした。

しかし、カルタゴ本土の潜在的な国力は残されており、
また、ローマ人の中にはハンニバルへの
恐怖心が存在している者もいるほどでした。



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2007年03月31日

イタリアの歴史020共和政ローマ13(第二回ポエニ戦争とハンニバル・中)

ハンニバルがイタリア半島北部にあらわれたと言う知らせは、
ローマにとって大きな衝撃でした。
 
勢いに乗るハンニバル軍は、
各地でローマ軍を打ち破ります。
 
この勢いを止めることが出来ないローマは、
ハンニバルの本拠地でもあるヒスパニアを攻め、
ハンニバルへの援軍と補給路を断ちます。
 
余談ですが、この頃の戦いで、
数学者のアルキメデスがローマ兵によって殺されています。
 
 
 
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2007年03月28日

イタリアの歴史019共和政ローマ12(第二回ポエニ戦争とハンニバル・前)

ローマに地中海の制海権を奪われたカルタゴですが、
活路をイベリア半島に見出します。
 
そこで登場するのが、カルタゴのイベリア半島の領地である
ヒスパニア出身のハンニバルです。
 
彼はカルタゴの将軍として、イタリア半島の攻略を考えます。
 
当然、カルタゴの海路からの反撃を予想して、
ローマは半島の南西部に兵を配置して備えており、
海路はローマ軍に支配されているので、
イタリア半島北部からの南下作戦をとります。
 
それを避け、イベリア半島からイタリア半島北部へ行くには、
アルプス山脈を越えなければなりません。
 
そこで、ハンニバルは約4万の兵と30頭の戦象を率いて、
このアルプス越えを成し遂げます。
 
 
 
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2007年03月25日

イタリアの歴史018共和政ローマ11(第一回ポエニ戦争)

アッピア街道により南部への遠征が円滑に行われるようになり、
ついに前272年、南イタリアのギリシアの植民市だった
タレントゥムを落とし、イタリア半島を統一します。

その後、西地中海の覇者であったカルタゴと、
その覇権をめぐって前264年より、
3度、100年以上にわたる戦争を行います。

第一回ポエニ戦争は前264年から前241年までで、
シチリア島をめぐって主に海上戦が行われました。

シチリア島は地形的に陸上戦には不向きのため、
攻城戦と、海上戦が主な戦闘行為だったようです。

23年間にわたる戦争の結果、ローマが勝利を収め、
カルタゴに厳しい条件を突きつけ、講和します。

その中の一つにシチリア島の領有があり、
この地をローマ最初の属州としました。



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2007年03月22日

イタリアの歴史017共和政ローマ10(イタリア半島の統一とアッピア街道)

貴族と平民の身分闘争が行われていた時期は、
ローマが拡大し、イタリア半島を統一している過程でもあります。

その統一過程でイタリア半島各地に敷設されていったのが、
「アッピア街道」で有名なローマ街道です。

「街道の女王」とも言われるアッピア街道は、
検察官のアッピウス・クラウディウス・カエクスの主導によリ、
前312年に着工され、ローマ市内から、
ナポリの北方のカプア(カープア)までの
約200キロが完成したのが最初です。

「全ての道はローマに通ず」という言葉のように、
ローマから各地に通じているこのローマ街道が
ローマイタリア半島を統一するのに貢献しました。

この街道は、一度路面を掘り下げ、砂を敷いて固め、
その上に石灰と砂を混ぜたモルタル、小石などを敷き詰め、
さらにその上に砂利と砂の層を重ねて、
最後に玄武岩で石畳にするという手の込んだものでした。

そして、何より特徴的なのは、
この道が軍隊が通りやすくするために、
「直線」であることです。

因に初めて「マイル・ストーン」(道標)が置かれたのも、
このローマ街道だと言われています。



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2007年03月19日

イタリアの歴史016共和政ローマ09(ホルテンシウス法と身分闘争の終結)

リキニウス法により執政官のうち一人を
平民(プレブス)から選出するようになりましたが、
まだ貴族(パトリキ)との間には身分的格差がありました。

そこで、平民たちはモンテサクロという聖山に総退去し、
身分的格差をなくそうと試みます。

この事態に直面した当時の独裁官である
ホルテンシウスによって前287年に制定されたのが、
「ホルテンシウス法」です。

これにより、平民会の決定が、
元老院の承認を得なくてもローマの国法となることが定められ、
ここに貴族と平民の法的平等が実現されたのです。

この法律の成立によって、身分闘争は終結したと考えられています。



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2007年03月16日

イタリアの歴史015共和政ローマ08(リキニウス法)

ようやく支配層に加わることが出来た平民たちでしたが、
まだ2名の執政官は貴族しかなることが出来ませんでした。
 
そこで、前367年にリキニウス・セクスティウス法で、
その執政官のうち1名を平民から選出することを定めます。
 
この通称リキニウス法では他にも、
500ユゲラ以上の土地を保持してはならない、
と定めた内容があります。
(ユゲラは当時の土地の広さを表す単位。)
 
これは土地の保有を制限することにより、
富裕層による事実上の大土地所有を抑制することになります。
 
 
 
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2007年03月13日

イタリアの歴史014共和政ローマ07(十二表法の制定)

当時のローマにおいては、
法に関する知識は貴族に独占されていて、
彼らによって恣意的に適応されていました。

そこで前451年頃にローマにおいて
初めてとなる成文法が作成されました。

この成文法が制定されたことで、
平民たちにも法知識が共有されるようになり、
身分闘争の一つの画期とされます。

因に「十二表法」と言われるのは、
十二の銅板に法律の内容を書いて公布したからとされ、
ローマ人の教養として暗唱させられることもあったようです。

ただ、その十二枚の銅板は失われてしまったと言われ、
後世の著作などに断片的に引用されものから、
復元されたもののようです。


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2007年03月10日

イタリアの歴史013共和政ローマ06(護民官の登場)

支配層と一体となった平民たちですが、
前494年に自分たちの権利の保護を目的として、
「護民官」を設置します。

この護民官の設置の際に平民たちがとった行動が、
モンテサクロという聖山に立てこもり、
自分たちの政治的発言力の強化を求める、
というものでした。(聖山事件)

彼らは、ローマの政治体制を拒否し、
聖山で新たな国家を樹立する動きを見せます。

そこで自分たちの代表(=護民官)を選び、
そのもとで結束し、その身体の不可侵を神に誓います。

代表は執政官と対応して2名が選出され、
平民のみで構成された「平民会」が
議決機関として設置されました。

こうした平民たちの動きに対して
貴族たちも妥協せざるを得なくなり、
平民会を正規の民会として認め、
護民官も国家の官職としたのです。

この護民官は平民だけが参加する平民会で選ばれ、
他の政務官の決定事項を取り消す権利を持ち、
また、彼らの身体は不可侵であることも承認されました。

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2007年03月07日

イタリアの歴史012共和政ローマ05(貴族と平民の身分闘争)

平民(=プレブス)が元老院の資格を獲得するまでには、
貴族(=パトリキ)との身分闘争があったと考えられています。

当時、ローマは周辺の国家との相次ぐ戦争により、
平民たちは重装歩兵となり、
戦争の主体を担うようになっていました。

そうした背景から、やがて彼らは政治的発言力が強まり、
政治を独占していた貴族に対して、
政治への参加を要求するようになります。

これが「身分闘争」の始まりです。

不満が蓄積していた平民たちの要求に対し、
貴族たちは次第に平民たちに歩み寄ります。

こうして上層平民が政治へ参加するようになり、
貴族と一体となり支配層を形成するようになったのです。

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2007年03月04日

イタリアの歴史011共和政ローマ04(元老院と執政官)

元老院や政務官を構成するいわゆる支配層は、
「ノビレス」と呼ばれていました。

最も重要な政務官は執政官で、
その命令権は王の権力から
受け継がれたものと考えられています。

任期は1年で2名が選ばれ、
欠員が出来た時には補充選挙が行われ、
新たな執政官の任期は前任者のものを引き継ぎました。

一方、元老院は王政の時代から存在したと考えられており、
当初、その構成員は貴族(=パトリキ)のみでした。

それが後に、元老院議員の資格は政務官経験者となり、
平民(=プレブス)にも開かれるようになりました。

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2007年03月01日

イタリアの歴史010共和政ローマ03(共和政の仕組み)

さて、王政から共和政に移行したローマですが、
その時の共和政の仕組みは
どのようなものだったのでしょうか?

一般的には元老院、政務官、民会の
三つの機関があったと考えられています。

まず、ローマ市民によって構成される民会が政務官を選出し、
その政務官たちが実際の政務を行います。

そしてこの政務官の経験者たちにより、
元老院が構成されるという仕組みでした。

この元老院は巨大な権威を持っており、
そこで決議されたことに逆らうことは
難しかったと考えられています。

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2007年02月26日

イタリアの歴史009共和政ローマ02(先王タルクィニウスの反攻)

王政から共和政に移行した頃のローマは、
ローマ王と各国家間との同盟関係だったため、
周辺の都市国家との同盟も解消されていました。

それどころか対立関係になり、
企てが失敗したことを知ったタルクィニウスは、
自身の出身であるエトルリア人の諸都市から兵を借り、
ローマを攻めてきました。

ローマ内に住んでいたエトルリア人はローマを出て行き、
タルクィニウスはローマを包囲しますが、
ローマが降伏しないため、やがてタルクィニウスは去ります。

その後、ローマはエトルリアから学んだ技術を基に発展させ、
次第にエトルリアを上回るようになっていったようです。


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イタリアの歴史008共和政ローマ01(共和政ローマへの移行)

第7代王のタルクィニウスが紀元前509年に追放され、
ローマに共和政が導入されます。

しかし、この共和政にすんなり移行したわけではありません。

問題点として、王の代わりに執政官が選ばれるのですが、
その執政官が元老院の意向で決められるようになったこと、
執政官になる被選挙権が40歳以上となっていたことがあります。

これに対して不満を持った若いローマ市民たちは、
追放されたタルクィニウスの王への復帰を企みます。

この企ては失敗し、初代執政官となった
ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは、
彼自身の息子を含め、その企てに参加した者たちを処刑します。

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イタリアの歴史007古代ローマ07(王政ローマの終焉)

王政ローマ最後の王となったタルクィニウスは、
市民の評判は良くありませんでしたが、
戦争は得意だったようで、ローマは領土を広げました。

やがてローマは、自国よりも強大なエトルリアと同盟関係を結び、
近隣では敵対する強国は無くなります。

しかし、その結果、ローマの中をエトルリア人たちが
自由に歩き回るようになり、それを見たローマ市民たちの中には、
ローマはエトルリアの属国になってしまった、
と考えるものも多くなりました。

そんなある時、王の息子セクトゥスが親類の妻に手を出し、
寝室に忍び込んで彼女を我がものにしてしまいます。

彼女は駆けつけた夫や親類の前ですべてを告白し、
男たちが復讐を誓うのを見届けて短剣で自らの命を絶ちます。

夫の友人でこの現場を見たルキウス・ユニウス・ブルートゥスが、
王の一族は追放すべきだという演説をし、
不満を持っていた市民たちがそれに従いました。

戦争の途中だった王は急を知りローマに駆け戻りますが、
門は全て閉じられた後だったのです。

王タルクィニウスは従う兵だけを連れて、
故郷のエトルリアに去り、
ここに王政ローマは終焉を迎えたのです。

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イタリアの歴史006古代ローマ06(王政ローマの崩壊)

ローマの最初の王となったロムルスですが、
やがて紀元前715年のある日、閲兵中に大雨が降り、
その雨が上がった時には見えなくなり、
この時に王は死んだとされています。

ロムルスが亡くなった後も、
数代の王によって領土を拡大していったローマですが、
やがて崩壊し始めます。

伝承では、5代目以降の王は
全てローマ人ではなくエトルリア人で、
ローマはエトルリアの属国に成り下がった、
と考える市民も多くなりました。

さらに、最後の王とされるタルクィニウスは、
のちに傲慢王(スペルブス)と呼ばれ、
前王の葬儀を禁止した上、先王派の議員を全員殺し、
即位にあたって、市民集会の選出も元老院の承認もありませんでした。


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イタリアの歴史005古代ローマ05(王政ローマの拡大)

紀元前753年にロムルスが王となって、
初めて領土を拡大したのは、
隣のサビニ人の村と争ったことからでした。

ローマは最初ラテン人の国だったのですが、
隣のサビニ人の丘の村娘たちを祭りに招き、
そのまま娘たちを自宅に連れて帰ってしまったのが発端でした。

当然、サビニ人の男たちと戦いになったが、
妻となっていた彼女たちは、
ローマの男たちには虐げられておらず、
争いをやめてほしいと言ったため、
サビニ人の王が和平を受け入れたのです。

その結果、サビニ人の王はローマに一緒に住み、
共同統治することになったのですが、この王はすぐに死に、
ロムルスがローマを指揮することになったのです。


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イタリアの歴史004古代ローマ04(王政ローマの制度)

もともとはイタリア半島の中でも、
小さな村に過ぎなかったローマが、
なぜ一大帝国となったのでしょう?

その原点とも言える
王政ローマの仕組みを見ていきたいと思います。

当時のローマ周辺は、数々の都市国家に囲まれていて、
人口の少なかったローマにとって、
自衛のための兵力を確保する事が課題でした。

そのためにローマがとったやり方は、
他国から一族を率いて移住してきた者たちや、
戦争で打ち負かした国の住民たちもローマに移住させ、
その代表者を「元老院」の議員とすることで、
味方に取り込んでいくことでした。

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イタリアの歴史003古代ローマ03(王政ローマの成立)

ロムルス王が建国されたとされるローマでは、
「王政」がとられていました。

建国から王であったロムルスですが、
その治世の途中で、「民会」の選挙で選出されて、
改めて選ばれた「王」となっています。

この「王」は原則として世襲制はとらず、任期は終身、
つまり一度選ばれれば死ぬまで王であったわけです。

中には、もともとローマに住んでいなかった者が、
ローマ市民から選ばれて王として迎えられた人物もいます。

因に、古代ローマではロムルスを含めて
7人の王がいたとされますが、
その中には存在も疑問視されている者もいたりして、
実際のところ、王の人数やその事績も
事実かどうかは定かではありません。

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イタリアの歴史002古代ローマ02(ロムルスは実在したか?)

さて、ローマを建国したとされるロムルス王ですが、
当時のローマは文字が無かったと考えられていて、
その存在を疑問視する人もいます。

ただ、最近の考古学の研究によると、紀元前17世紀には
ローマのカピトリヌス丘などに集落が存在していたようですし、
パラティヌス丘の北東で発見された遺構は、
ロムルス王がいたとされる時代
(紀元前730〜720年)の頃のものとされています。

そうだとすると、多少の脚色はあるかもしれませんが、
ロムルス王の存在もあながち嘘ではない気がしますよね?


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イタリアの歴史001古代ローマ01(ロムルスの伝承)

今回から「古代ローマ」の時代です。

ローマは伝承では紀元前753年に
ロムルス王が建国したとされています。

このロムルス王、双子だったのですが、
ある事情から生まれてすぐに川に流され、
狼の乳を吸って育ったとされています。

ロムルスとレムスが狼の乳を吸っている像があります。


その後、羊飼いに育てられ、
そこで双子はロムルスとレムスと名付けられます。

成長した兄弟は新しい都市を築こうとしますが、
兄弟の間で争いが起こり、
ロムルスはレムスを殺してしまいます。

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イタリアの歴史000はじめに(イタリアの歴史概略)

イタリア半島は地中海の中心に位置していて、
古くからアジア方面との海上貿易にとって重要な拠点でした。

古代ローマ帝国時代は地中海貿易で繁栄し、
その勢力をアフリカやアジアにまで広げ、
遠くインド・中国まで交易範囲を拡大していったのです。

中世に入り、十字軍の遠征以来、東方との貿易が盛んになり、
商業的繁栄の上にルネサンス文化が花開きました。

しかし、都市ごとの小国が分立していたため、
イタリア半島全体としてのまとまりは無く、
近代に入りドイツやフランスの侵略をしばしば受け、
政治的には不安定な時期が長く続きました。

国家として成立したのは19世紀後半になってからで、
現在の「イタリア共和国」となったのは、
第二次世界大戦後の1948年になってからです。


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