2008年08月10日

シューマッハの挑戦

F1で7度のワールドチャンピオンに輝くミハエル・シューマッハ。


今でもフェラーリでテストすることもあるようですが、
最近はすっかりバイクレースにはまってるようです。
しかも、今度はバイクの耐久レースに参加するようです。


天は二物を与えずといいますが、彼はそうでもないのでしょうか?
今後の成績が楽しみですね。

しかし、今年のF1はチャンピオン争いがおもしろいですね。
日本に来るときにはどうなってることやら。

2008年06月13日

うひょう 信号無視でイタリアの跳ね馬撃沈の巻

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2008年 F1GP第7戦 カナダGP。やっぱりカナダは荒れますねぇ。
例によってセフティーカー出るし。

このサーキット、というか市街地コースですけど、他のサーキットほどマーシャルスキルが高くないらしい。通常だとイエローフラッグで済ましてしまうような場合でも、セフィティーカーが出てしまうんですって。

常設サーキットではないし、ボランティアさんもなかなか経験を詰めないんでしょうか。
確かに、コースサイドのマーシャルさんたちって、ある意味命がけ。ものすごい危険と隣り合わせています。
ですから、安全を確保してコースサイドの処理を行うには仕方のないことなのかもしれませんね。

一方、ドライバーにしてみれば、後続を引き離している者にしてみれば、今まで築いたマージンが一気にゼロになってしまうから、参っちゃいますよね。逆の場合は、ラッキーこの上なし。


ところで、今回、セフティーカー導入中のピットストップで大混乱が発生しました。
セフティーカーが入っている最中は、周回スピードも遅いし、追い越しもないので、多くの場合この期間にピットストップをしようと考えます。

今回も、どびゃどひゃ~っと、一気にピットへなだれ込む面々。そして、我先にとピットアウト。
ところが~!!

BMWのクビサとフェラーリのライコネンが並んでコースに戻ろうとピットアウトー。
が、ピットレーン出口の信号がいまだ赤のまま。急いでブレーキをかけ、サイドバイサイドのまま停止るす2人。

ところが、あせっているマクラーレンのハミルトンは赤信号に気がつかずに、フェラーリのライコネンに後ろから追突~。両者リタイアとなりました。


通常の公道なら、前の車の運転手さんは鞭打ちになったりしますけど、さすがF1。ライコネンは無傷でした。


この結果、GPはBMWの1-2フィニッシュ。今話題のロバート・クビサが初優勝。2位にニック・ハイドフェルド。

ドライバーズポイント
順位 ドライバー ポイント
1 R.クビサ 42
2 L.ハミルトン 38
3 F.マッサ 38
4 K.ライッコネン 35
5 N.ハイドフェルド 28


コンストラクターズポイント
順位 ドライバー ポイント
1 スクーデリア・フェラーリ・マールボロ 73
2 BMWザウバーF1チーム 70
3 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス 53
4 レッドブル・レーシング 21
5 パナソニック・トヨタ・レーシング 17

BMWが来ました、来ました。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年06月01日

英独伊の対決

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2008年 第6戦 モナコGPを終えてのポイントランキングです。

ドライバーズポイント
順位 ドライバー ポイント
1 L.ハミルトン 38
2 K.ライコネン 35
3 F.マッサ 34
4 R.クビサ 32
5 N.ハイドフェルド 20


コンストラクターズポイント
順位 ドライバー ポイント
1 スクーデリア・フェラーリ・マールボロ 69
2 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス 53
3 BMWザウバーF1チーム 52
4 AT&Tウィリアムズ 15
5 レッドブル・レーシング 15

ドライバーでは、1位~4位が拮抗しています。
彼らが所属しているのは、
ハミルトン: マクラーレン(英)
ライコネン&マッサ: フェラーリ(伊)
クビサ: BMWザウバー(独)

ドライバー2人がポイントランキング2位、3位にいるフェラーリが、現状コンストラクターズでは一馬身先んじています。

今年は、BMWザウバーが来ました。ドライバランキング4位、5位は、BMWザウバーチームのドライバーです。


昨年までは、フェラーリ対マクラーレンの戦いでした。今年は、BMWザウバーがかなりいいところに来ています。これは楽しみですな。


もともとザウバーはスイスのF1チームだったのです。BMWが2005年に、このチームを買収して、現在のBMWザウバーF1チームになりました。

さてさて、スーアグなきシーズンは、この3者の戦いに注目しましょうか。

もちろん、中嶋君にも期待してまっせー。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年05月20日

トルコGPはやっぱりこの男だった

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”


スーパーアグリが撤退してしまったので、ちょっとさびしい2008年のF1シーズン。
気を取り直してF1を応援しているイタル山本です。

さて、トルコGPはやはりこの男が来た!
2007年もポール トゥ ウィンを決めたのは、フェラーリのフェリペ・マッサ。

この人、つぼにはまるときは、めっぽう速い。
で、ポカするときは、なんじゃこりゃ~という感じでやっちゃう。

かつてのマンセルも、そんな波のあるタイプ。
マンちゃんも速いけどこれぞというときにポカる。

でも、マッサは、マンちゃんとはちょっと違う並なんだよ、イタル的には。

マッサは、サーキットによってはまるかはまらないかが分かれる感じなんですな。
はまるサーキットでは、不安感なくバビューンて行っちゃうの。逃げ切りタイプ。
はまらないサーキットでは、だめだめ~なのね。

マンちゃんは、バビューンて行っているときに、ポカーンてやっちゃう。


いずれにしても、ただ速いドライバーよりも着実に行くドライバーが求められるF1では、波のあるドライバーが面白いんですよね。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年05月08日

スーパーアグリ消滅!

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

前回、スパーアグリの危機について触れました。とうとう、そのときがやってきました。

スペインGPがスーパーアグリの最後の出走となりました。

マグマグループによる買収も、投資家の合意が得られずに現実化しませんでした。ドイツのヴァイグルとも話しをしていたようですが、こちらもうまく行かず。結局幕引きを亜久里さんが決心しました。

企業間のしのぎ合いとマネーゲームが展開される現代F1の中で、孤軍奮闘したプライベートチーム。

純粋に、カッコイイ、スゴイと感じて応援したくなる。
そんな感情を引き出してくれたスーパーアグリと佐藤琢磨に感謝しています。

琢磨選手には、F1をドライブするチャンスを再度つかんでもらいたいですね。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年04月26日

今週末はスペインGP

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

この日曜日は、スペインGP決勝です。

前回も触れたように、スーパーアグリはピンチです。
なんとか、スペインGPの出場は確定したものの、チーム存続が依然として不確定。

マグマグループによる買収の方向で話が進んでいたものの、この話がご破算になったと報道されました。マグマグループの投資家(ドバイ)が、最終的にスーパーアグリ買収を拒んだためらしいです。

身元引受人のいなくなったスーパーアグリは、その存続はおろか、スペインGPに出走する費用の確保さえ危ぶまれ、ぎりぎりまでスペインGPに出場するかさえ未確定でした。

スペインGP出走が確定、フリー走行も済ませているので、一安心ではありますが、次戦に出場できるのか、チームは存続できるのか、予断を許さない状況が続いています。

切に存続をきたいしているイタル山本なのです。

P.S.

われらがイタリアの跳ね馬フェラーリは好調さを継続しています。
フリー走行2回目では、ライコネンがトップ、マッサが5番手。マクラーレンのハミルトン(11番手)とコバライネン(16番手)を上回っています。
日曜も期待できそうですな。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年04月14日

どうなる スーアグ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”


第2戦、第3戦とイタリアの跳ね馬フェラーリの調子がいいのでこちらは一息入れるとして、どうなるスーアグことスーパーアグリ。

昨年のスポンサー、SSユナイテッドが金払わずに資金難に陥って以来、ずっと金欠病。身売りの話が現実に行われています。

マグマ・グループに買収されて、チームは存続する方向で話がされているとのこと。

日本のF1ファンとしては、どこかの日本企業が大口スポンサーになってくれることを期待するんですけど、実際、これは難しいでしょうね。

数十億という費用がかかる反面、F1にスポンサーしたことによる数値的見返りはそうそうあったものじゃない。このご時勢に、ほとんど寄付に近いような感じでお金を出せる企業はいないよね。

なんとか、生き残ってほしい、頑張れスーアグ。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年04月02日

二世ドライバーの時代

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2008年は、二世ドライバーが脚光を浴びていますね。残念ながらイタリア人ドライバーではないのだけれど。

その1 ニコ ロズベルグ (ドイツ)

1982年のワールドチャンピオン ケケ ロズベルグを父に持つ男。ケケはフィンランド人なんだけど、ニコは母親の国籍、ドイツ人として参戦しています。ドイツで生まれてモナコで育ったので、フィンランド語は話せないんだって。

今年はウィリアムズ・トヨタに在籍中


その2 中嶋 一貴

ご存知、中嶋 悟の長男。ニコと同じウィリアムズ・トヨタをドライブ。
昨年の最終戦ブラジルGPからウィリアムズでF1レースデビュー。10位に入賞するも、ピットインの際に止まりきれずにチームクルーの足にヒットする場面がTV中継されちゃった。

今年のウィリアムズは二世ドライバー軍団。頑張れ中嶋。


その2 ネルソン ピケJr.

ご存知、3度のワールドチャンピオンになった、F1界きっての色男、ネルソン ピケの息子。
ルノーのドライバー。
母親はオランダの人で、幼少のころネルソンJr.はモナコで育ったんだそうだ。


世の中、議員さん含めて、オヤジさんと同業につく傾向はやっぱりあるんですね。
レースドライバーも、議員も、ワタシにとっては別世界。でも、身内がその世界の人だと、我々にとっては別世界であっても、当人にとっては身近な世界なんでしょうね。


ワタシのオヤジは会社員。ワタシは自分で意識したことはなかったけれど、自分は会社員になるのが当然というか、それ以外の選択肢を考えたこともなかったです。
やっぱり、生活環境の影響って、人生の中で大きいですな。もちろん、それがすべてじゃないですけどね。

ではまた。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。


2008年03月21日

2008 F1 開幕戦 オーストラリアGP

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”


2007.3.16、ついに2008年のF1開幕戦 決勝を迎えました。

開幕戦では、われらがフェラーリはメタメタ。6位に入ったホンダのバリチェロが失格となったため、9位だったフェラーリのライコネンが繰り上がって8位入賞。何とか1ポイント獲得しただけでした。

ま、11月までの長丁場。今後の復活に期待しましょう。

今年のF1は全18戦。オーストラリア、マレーシア、バーレーンの3戦をこなした後、第4戦スペインGPからヨーロッパラウンドを迎えます。

途中、第7戦 カナダGPで北米大陸に一度渡るものの、昨年までインディアナポリスで行われていたアメリカGPが今年は開催されません。したがって、第8戦フランスGPから第14戦イタリアGPまで、再びヨーロッパラウンドとなります。

第15戦からは、シンガポール、日本、中国を回り、最終戦はブラジルで幕を閉じます。

さて、昨年は全17戦。ことしなくなったGP、新たに加わったGPは何でしょうか。
同じ国でも、開催するサーキットが変わることもありますけれど、ここは、国単位で考えるとしましょう。

なくなったGP
アメリカGP

増えたGP
ドイツGP
シンガポールGP

1減2増で、1戦昨年より多くなっています。
ちなみに、ヨーロッパGPというものがありまして、昨年はドイツのニュルブルクリンクで開催されました。今年のヨーロッパGPは、スペインのバレンシア、市街地サーキットで開催される予定です。

第4戦スペインGPはカタロニアサーキットで開催されるので、事実上今年は2回、スペインでF1が開催されるのですね。

F1は、1国1開催が原則なのですが、GPのタイトルを変えて、事実上2回開催の例も過去あります。

日本でも、パシフィックGPとしてTIサーキット英田、日本GPとして鈴鹿で2回開催したこともありました。
また、かつてはイタリアGPとサンマリノGPとして、イタリア国内で2回、F1が開催されていたこともあります。ここ参照ね。イタリアのF1グランプリ2

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年03月09日

2008年 F1開幕戦まもなく

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2008年 F1開幕戦まもなく

ってことで、なんか新しいネタでもないものかと
初めてフェラーリのオフィシャルサイトをのぞきに行きました

うおお~

な、なんと!!!!

とんでもねぇ~ サイトだ~~

お、重い~~

さすがイタリアンのサイト

見てくれはよさそうですが~

使いかってがよくありません

さしものフェラーリも、エセ広告代理店にふんだくられているのかな~

たのむぜ~!!

アクセスすると、Loading中のマークが出て、赤い背景が表れる

しかし、どこをクリックすれば次のページに行くのか 悩む

あちらこちらをマウスでなでまわし、クリックできるところをさがすのだ


お、ここだ!

とクリックすると、まだ どろーんとLoading

出てきたサイトはイタリア語  わしゃ読めん

で、英語版もあるだろうと探すんだが、どこから入ればよいのやら~

なんて感じで、暇つぶしにはもってこいかもしれないんですけどね~

興味のある方はお試しあれ
http://www.ferrariworld.com/FWorld/fw/index.jsp


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年02月26日

2007 イタリアンチーム フェラーリレビュー Rd7 アメリカGP

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”


2007年F1台7戦 アメリカGP

インディアナポリスですな。

昔はアメリカGP、西と東で2戦行われていた時期もあれば、アメリカでの開催がなかった時期もあります。アメリカではあまりF1の人気は高くない。

オーバルコースをブンブンぶっ飛んでいくような、判りやすいレースが中心ですな。NASCARとか。

さて、この第7戦、結果を言うと、予選、決勝とも

1位 ハミルトン
2位 アロンソ
3位 マッサ
4位 ライコネン

ここでもマクラーレン優位、ハミルトン好調です。

ドライバーズポイント

1位 ハミルトン   58
2位 アロンソ    48
3位 マッサ     39
4位 ライコネン   32


コンストラクターズポイント

1位マクラーレン  106
2位フェラーリ     71

フェラーリはマクラーレンに差をつけられる一方です。
更に、ハミルトンは2戦連続ポールトゥウィンで好調。
スーパールーキー度をアップ。

ちなみに、ファステストラップはライコネンの1'3"117。
スピードでは必ずしもフェラーリが遅いわけではない。

北米大陸2連戦を消化し、次はヨーロッパラウンド、フランスGP。
次の展開に期待ですな。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年02月14日

2007 イタリアンチーム フェラーリレビュー Rd6 カナダGP

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2007年F1第6戦 カナダGPは荒れたレース展開。

予選は、マクラーレンがポールと2位、フェラーリが4位と5位。マクラーレンとフェラーリに割ってはいたのが、BMWのニックハイドフェルド。にくいね~。

ここでは、ハミルトンがF1で最初のポールポジションを獲得。1人だけ、1分15秒台をたたき出した。

日本のエース 佐藤琢磨は11位と、がっちり中段に食い込んでいる。


日曜日、決勝は大荒れのレース。セフティーカーが4回も入る混乱の様相を見せた。

トップのハミルトンはこれといったミスもなく、F1初優勝。

アロンソは、燃料補給に関するペナルティを受けて10秒のストップ。
その後68周目、スーパーアグリの佐藤琢磨に買わされて7位に後退、そのままのチェッカーとなった。

一方、フェラーリのマッサは、ピットアウトの際のレッドシグナルを見損ねてコースイン、失格となる。

ライコネンは、5位と、今回のフェラーリは精彩を欠いていた。


ドライバーズポイント

ハミルトン    48
アロンソ     40
マッサ      33
ライコネン    27


コンストラクターズポイント

マクラーレン  88
フェラーリ    60


明らかに、マクラーレンが有利な展開となっている。 


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年02月02日

2007 イタリアンチーム フェラーリレビュー Rd5 モナコGP

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、いよいよモナコGP。

ここは、超低速市街地コース。レース中の追い抜きがきわめて困難なことから、予選順位が非常に重要だ。


この予選でイタリアの跳ね馬、フェラーリと、イギリスの名門、マクラーレンの明暗が分かれた。

予選では、キミ・ライコネンがフロントタイヤをガードレールにヒット。なんと予選16番手となる。


一方、マクラーレン勢は、アロンソ、ポールポジション、ハミルトンが2番手。フェラーリのマッサがかろうじて3番グリッドを獲得した。

いざ決勝。1-2-3位は、予選順位どおり、アロンソ、ハミルトン、マッサの順。なんと2台のマクラーレンは、4位以下の車を周回遅れにしている。マクラーレンの独壇場。


フェラーリのライコネンといえば、鬼神の走りで8位となり、1ポイントゲット。

この時点では、この1ポイントがとてつもなく大きな意味を持つことを知る由もなかった。


ドライバーズポイント

1位 アロンソ 38ポイント
2位 ハミルトン 38ポイント
3位 マッサ 33ポイント
4位 ライコネン 23ポイント


コンストラクターズポイント

1位 マクラーレン 76ポイント
2位 フェラーリ 56ポイント

マクラーレンとフェラーリの差がさらに開く結果となった。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年01月21日

2007 イタリアンチーム フェラーリレビュー Rd4 スペインGP

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2007年F1第4戦 スペインGP

ここでも、フェラーリ マッサは好調。3戦連続ポールポジション獲得。

以下、 
2位 マクラーレン フェルナンド・アロンソ
3位 フェラーリ   キミ・ライコネン
4位 マクラーレン ルイス・ハミルトン

1位から4位を2強、フェラーリとマクラーレンが独占する。

ちなみに、スーパーアグリ 佐藤琢磨は、13位とまずますのグリッドを獲得。


決勝スタート後、第一コーナーでマッサに仕掛けたアロンソだったが、第2コーナーで、アロンソがダートにはみ出した結果、4位に後退。

10週目には、ライコネンが電気系トラブルでリタイアに追い込まれた。

その結果、スペインGPはマッサの連勝。

優勝 マッサ
2位  ハミルトン
3位  アロンソ


しかし、チャンピオンシップポイントは

1位 ハミルトン  30P
2位 アロンソ   28P
3位 マッサ    27P
4位 ライコネン  22P

今だ優勝経験のない、ルーキー ハミルトンがなんとチャンピオンシップポイントでトップに立つ。
これまでに、マッサ2勝、ライコネン1勝、アロンソ1勝しているにもかかわらず、である。

2勝しているマッサがチャンピオンシップでは3位、無勝のハミルトンがトップである。

これが、F1チャンピオンシップのなんとも・・・なところである。
ムラなく、しこしこポイントを稼ぐのが効いてくる。


コンストラクターズポイントでは

1位 マクラーレン  58P
2位 フェラーリ    49P

ライコネンのリタイアが響いた。


ちなみに、ここでは、佐藤琢磨が魅せた。
ルノーのフィジケラをかわして8位入賞。スーパーアグリ初の1ポイント獲得。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。
 

2008年01月13日

2007 イタリアンチーム フェラーリレビュー Rd3 バーレーングランプリ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

1位ライコネン 18P
2位アロンソ  16P
3位ハミルトン 14P

とのチャンピオンシップポイントで、フェラーリvs マクラーレンの様相が如実にでてきた。

第3戦 バーレーングランプリ

予選トップはフェラーリのフェリペ・マッサ
2位 マクラーレン ルイス・ハミルトン
3位 フェラーリ キミ・ライコネン
4位 マクラーレン フェルナンド・アロンソ

ここでも、フェラーリとマクラーレンのがっぷり四つ。

ポールポジションのマッサがトップでスタート。ハミルトン、ライコネン、アロンソと、予選順位で1コーナーをクリア。

しかし、4コーナーでアロンソがライコネンをオーバーテイク。マッサ フェラーリを2台のマクラーレンが追う格好となった。

しかし、1回目のピットストップでライコネンがアロンソの前に出る。これで、フェラーリ 1,3位、マクラーレン 2.4位となる。

だが、アロンソのスピードが上がらないため、ザウバーBMWのニック・ハイドフェルドがアロンソをパス。

この順位でチェッカーとなった。

優勝  フェラーリ フェリペ・マッサ
2位   マクラーレン ルイス・ハミルトン
3位   フェラーリ キミ・ライコネン
4位   ザウバーBMW ニック・ハイドフェルド
5位   マクラーレン フェルナンド・アロンソ


ドライバーズランキング

1位 アロンソ  22ポイント
2位 ライコネン 22ポイント
3位 ハミルトン 22ポイント
4位 マッサ   17ポイント


コンストラクターズランキング

1位 マクラーレン  44ポイント
2位 フェラーリ    39ポイント


2007年、フェラーリ、マクラーレンの4人の対決がよりクローズアップされてきた。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年01月06日

2007フェラーリレビュー Rd2マレーシアGP

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

開幕戦はフェラーリのキミ・ライコネンがポールトゥウィンで、フェラーリ好調の感触。
しかし、2位、3位にマクラーレンのアロンソとハミルトンは入り、2007年も混戦が予想される。

特に、ライコネンは一発の速さは誰も疑うものがいないが、不運も重なり、シリーズを通した結果に結びついていない。開幕戦も、この一発の速さでなければよいのだが。


第2戦マレーシアGP。

ポールポジションはフェラーリのフェリペ・マッサ。やはりフェラーリは2007年、好調か。
2位マクラーレンのアロンソ、3位フェラーリのライコネン、4位マクラーレン ハミルトン。
フェラーリとマクラーレンのがっぷり四つ。

決勝、スタート後、トップのマッサを1コーナーでアロンソがかわす。そして、マッサはハミルトンにもかわされる。

ハミルトンのインをつこうとしたマッサだったが、オーバースピードでコースアウト、5位に転落。

結果、アロンソ優勝、2位ハミルトン、3位ライコネン。マッサは結局5位でフィニッシュ。
今回は、アロンソがチャンピオンの意地を見せた。また、ハミルトンが連続表彰台、ルーキーながらポテンシャルを見せ付けた。

マクラーレンにとっては19戦ぶりの優勝を1-2フィニッシュで飾った。


2戦を終えてのチャンピオンシップは

1位ライコネン 18P
2位アロンソ  16P
3位ハミルトン 14P

フェラーリ vs マクラーレンのシーズンとなりそうな気配である。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2008年01月01日

2007フェラーリレビュー Rd1オーストラリアGP

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

あけましておめでとうございます

さて、2008シーズンがやってきました
ここで開幕まで、2007シーズンでのフェラーリの動きをフィ梨かえって見たいと思います


さて、2007年の第一戦はオーストラリア

昨年のチャンピオン、フェルナンド・アロンソはルノーからマクラーレンへ移籍。
チームメイトは、これがF1初参戦のルイス・ハミルトン。

我フェラーリは、昨年引退したミハエル・シューマッハに代わり、マクラーレンからキミ・ライコネンが加入。
昨年、ミハエルとタッグを組んでいたフェリペ・マッサとタッグを組む。

ここ、オースラリアでは、キミ・ライコネンが好調。予選ポールポジション。決勝でも、ダントツの優勝でポールトゥウィンを飾っている。

2位にアロンソ。3位、これがデビューのハミルトン。
皇帝シューマッハが去ったF1だが、若手の台頭が著しく、新しい世代がF1を引っ張る予感が感じられた。


スーパーアグリ、2007年は昨年のホンダのマシンを改良したSA07を投入。2006年は最後尾争いをしていたのだが、今回は佐藤琢磨が予選10位と大躍進を遂げた。決勝12位と、2007年の活躍に期待が高まる。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年12月26日

ビジネスは甘くないなぁ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2003年から2005年まで、日本のオリンパスがフェラーリのスポンサーをしていました。

しかーし、TVで見ていても、フェラーリの車体のどこにオリンパス OLYMPUS のロゴが入っているのかわかりませーん。

そうです、鼻ッ先のところに、小さなロゴがついているんです。TVでは絶対にわかりません。
写真じゃないとね。

1970年代や1980年代に、OLYMPUSはロータスにもスポンサードしてました。
チャンピオンになった、アメリカンイタリアンドライバー、マリオアンドレッティや、かのアイルトンセナがロータスに居た時代ですね。

このときは、車体にデカデカとOLYMPUSのロゴが出てますんで、TVでもばっちし写ってます。


それだけ、現代F1は金がかかる、車体の公告スペースの値段が高くなっちゃったってことなんでしょう。

バブルのころは、どんどん日本企業がF1をスポンサードしたり資本を投入したりしましたね。
しかし、今は日本企業はほとんど金出しません。

F1の公告としての価値は、日本の一般企業にはあまりない、直接的なリターンが来ない、ということなんでしょう。


わがスーパーアグリ、プライベートなもっとも小さいチームですが、2007年は大活躍。
佐藤琢磨はカナダGPで、昨年のチャンピオン フェルナンド・アロンソのマクラーレンをかわして6位入賞しちゃうんですから。

しかし、それでも日本企業でスーパーアグリを応援しよう、スポンサーをしよう、という企業は出てこない。F1好きな日本人のわたしとしては、何でやねん、といいたいところ。しかし、現実には、モータースポーツを支援しよう、という気持ちがない限り、そんなお金は使えないというのは良くわかる話です。

やっぱり、日本人のメンタリティにはモータースポーツは根付いていないことが白日の下に証明されちゃったのよね。

スーパーアグリ、もとはSSユナイテッドと言うタイの石油会社の大口スポンサーを獲得したんですが、この会社がスカ会社で、結局金払わない。なもんで、シーズン中盤からスーパーアグリ資金難に陥って、マシンの開発が滞っちゃて。


ビジネスとしてのF1は厳しい、というお話でした。鈴木亜久里頑張れ~。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年12月20日

2007年F1もろもろ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

ホットな話題が飛び込んできました。


ルイス・ハミルトンがフランスでスピード違反!だって

196km/hで走行していて警官に捕まったそうで。罰金600ユーロ、愛車のメルセデスも没収されてしまったとのこと。

300km/h以上でバトルしてる人ですから、動体視力は反射神経は並ではないのでしょうが、公道では何が起きるかわからないですからね。

何事もなくよかったですけど。


一方、ドイツではミハエル・シューマッハがタクシー運転手に代わってタクシーを運転していたとか。

やっぱ、ヒーローはかっこよくなきゃダメだからなぁ。
二人ともただの人ではないのですから、どこまでもヒーローを演じてほしいですね。

僕はただのオヤジでよかった。
でも、娘が悲しむようなことはしませんよ~。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年12月14日

イタリアの跳ね馬 2007年 その8 スパイ疑惑 !?

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

スパイ疑惑 というと、なんか会社ぐるみでライバルの情報をイリーガルな手段で入手したようなイメージですが~、フェラーリとマクラーレンの場合はちょいと事情が異なります。

フェラーリとマクラーレンに居た技術者が独自に情報漏えいと入手をした、というところがスタートのようです。

話がややこしいので簡潔にポイントのみ。

登場人物
ナイジェル・ステップにー:フェラーリのメカニック
マイク・コフラン:マクラーレンのデザイナー

ナイジェルとマイクは、昔同じ釜の飯を食った同士だったんですわ。
ナイジェルさん、フェラーリの待遇にどうも納得できなくて、よそのチームに行きたがっていた。一方、マクラーレンのマイクさんも、マクラーレン内での立場が弱くなっていた。

そんなわけで、二人でつるんで、他チームへのリクルート話などを仕掛けようとしていたらしいのよ。その際に、ナイジェルさんが、フェラーリのデーター、これ、780ページにも渡るフェラーリの車体の情報らしいんだけど、これをマイクさんに流しちゃったそうで。

実際に、イギリス警察がマイクさんの自宅を捜索したら、大量の資料がでてきたそうな。

つうわけで、発端は両社の不良社員が悪さをしたわけなんだけど、マイクさん、その情報を内部的に有効利用しちゃった。なので、事情はともかくマクラーレンは何らかの恩恵にあずかったってわけで、ポイント剥奪と罰金を食らったという次第。

社員教育、社員を丁重に扱うことは重要ですなぁ。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年12月02日

イタリアの跳ね馬 2007年 その7

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

キミ・ライコネンの大逆転ワールドチャンピオン獲得によって2007年のドライバーズタイトルを成し遂げたフェラーリ。

F1の世界にはもうひとつ、コンストラクターズタイトルというものがあります。コンストラクターズ、平たく言うと、F1マシンを作っているtチームのタイトルですな。

他のカテゴリーのレースでは、レースに参戦するチームが、レースに出場するマシンをどこからか調達してきます。そのマシンに手を加えたりチューニングしたりして、チームがマシンを作るわけです。なので、複数のチームが同じマシンを使って、味付けを変えてレースをする。

F1の場合は、自前でマシンを作らなきゃなんないんですよ。つまり各チームがすべて自分たちでオリジナルのマシンを作らなきゃならないの。

で、このマシンを作るところ、すなわちコンストラクターズ間でも年間の順位を競い合うってわけです。

2007年は、このコンストラクターズタイトルもフェラーリがめでたく獲得しました。

うーん、ほんとうに、めでたくって言っていいのかなぁ~
F1につき物のひと悶着があったしねぇ~

さらに つづく~~


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年11月26日

イタリアの跳ね馬 2007年 その6

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、1ポイント差でワールドチャンピオンに輝いたキミ・ライコネン。

これで、イタリアの跳ね馬フェラーリは、2007年度、ドライバーズタイトル獲得。


しっかし、F1の年間チャンピオン争いは、ポイント制という、ちと複雑な仕組みになっているのだ。
単純に早いヤツが勝つ、とはならない。

たとえば2007年の優勝回数で言えば

キミ・ライコネン     6勝
ルイス・ハミルトン   4勝
フェルナンド・アロンソ 4勝

ライコネンが優勝回数では圧倒的に勝っているのだ。しかし、結果はわずか1ポイント差でのチャンピオン。

少なくとも、最終戦前までは、ライコネン5勝、ハミルトンとアロンソが4勝。ライコネンがもっとも勝っているのにもかかわらず、ポイントでは3番手になっている。

何でこうなるの、といと、たとえば2位になった回数を数えてみると・・・

ライコネン    2回
ハミルトン    5回
アロンソ     4回

ノーポイント、すなわち9位以下あるいはリタイアとなった回数は・・・・

ライコネン    2回
ハミルトン    2回
アロンソ     1回

ライコネンに比べて、ハミルトンが安定して上位に入賞しているんですな。


F1は早いだけじゃだめ、優勝できないときは手堅く上位入賞できるヤツが最後に勝つんですな。

かつてのナイジェル・マンセルは、バカッぱやいけど、優勝かリタイアか、で、なかなかチャンピオンになれませんでした。こういう人の走りは、アドレナリン ギンギンで 燃えるんだけどね。

わたしなんざ、一番優勝してたヤツがチャンピオンになりゃいいじゃん、なんて思っちゃうんだが、そうはいかんのですな。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年11月20日

イタリアの跳ね馬 2007年 その5

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2007年F1最終戦ブラジルGP

地元マッサ、トップ。追うライコネン。しばらくして3位アロンソ。ハミルトンは遅れを取る。

近代F1は、コース上での抜きつ抜かれつが少なくなった。給油やタイヤ交換を行うピット戦略が大きくものを言う。

一般的に、ガソリンが少ないほうが車両重量が軽くなるため、早く走ることが出来る。つまり、ピットインする直前が最も軽く、給油してピットアウトしたマシンはガソリンを積んでいる分車体が重い。また、タイヤ交換したばかりのアウトラップは、タイヤがまだ温まっていないため十分なグリップをもたない。

結果、ピットアウト直後のラップで飛ばすのはなかなか難しいのである。

従って、通常は後にピットインする方が有利と言われる。敵がピットインしている間に、軽い車体で飛ばしまくりタイムを詰める、あるいは更なる引き伸ばしを図るのだ。

マッサ対ライコネン。

マッサが先にピットイン、次周ライコネンピットイン。

ライコネンがピットロードからコースに戻ろうとする。ホームストレートをマッサが疾走してくる。
女神はどちらに微笑むのか!!!


ここでライコネンがマッサの前に出た。


この順位でレースは終了。
ライコネン優勝、マッサ2位、アロンソ3位。ハミルトンは周回遅れの7位。


この結果、ライコネンが通算110ポイント、ハミルトン、アロンソがともに109ポイント。
最終戦、わずか1ポイントの差でライコネンが逆転ワールドチャンピオンとなった。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年11月14日

イタリアの跳ね馬 2007年 その4

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2007年ブラジルGP決勝日

予選結果
1位 フェリペ・マッサ フェラーリ
2位 ルイス・ハミルトン マクラーレン
3位 キミ・ライコネン フェラーリ
4位 フェルナンド・アロンソ マクラーレン

いよいよスタートを迎えます。

レッドシグナルがすべて消灯、スタートが切られました。
フェラーリ勢がうまいスタート、ライコネンがハミルトンを交わして2位浮上。

一方、マクラーレンはハミルトンとアロンソがサイドバイサイドで3位をとるための意地の張り合い。
ハミルトンが弾き飛ばされてしまう。この結果、オープニングラップはアロンソ3位、ハミルトン8位となる。

おお~、いきなり目を見はる展開がやってきた。

そして、18週目、なんとハミルトンが失速。後続車にバンバン抜かれている。18位までおちてしまったぁ~~~~~!!!!!

なぜかその後、ハミルトンはスピードを回復、鬼神の追い上げを始めるのだ。
後にわかったことだが、これは一時的なギアボックスのトラブルだったそうだ。

この時点で、ワールドチャンピオンの可能性は、3人のいずれもがイーブンといえる展開になった。
最後までたのしませてくれるなぁ、今年のF1は。

マクラーレンは、ハミルトンのスタッフとアロンソのスタッフが完全に別々の班として動いていて、情報交換などはまったくしていない。

昔のセナ、プロスト時代のマクラーレンなら、マクラーレンがダントツに早かったのでチーム内でもめていただいてもよそのチームにやられることはすくないんですけどねぇ、今年はフェラーリが強敵ですから、チーム内運営が難しいのは、レース結果にも影響しますな。

いきなり1コーナーでやりあって、一方が吹っ飛ばされちゃうんだもん。

会社の中でもおんなじですけど、中でごちゃごちゃやる力を、すべて外に対して発揮したいもんです。
おっと、つい自分のグチがでてしまったイタル山本でした~。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年11月08日

イタリアの跳ね馬 2007年 その3

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、ハミルトン、アロンソ、ライコネン、3人のワールドチャンピオン候補を迎えての2007年F1最終戦ブラジルGP。

ポイントランキング
ハミルトン 107
アロンソ   103
ライコネン 100

ポイント面では、ハミルトンが有利。2007年のポイント制は次のようになっています。
1位 10点
2位  8点
3位  6点
4位  5点
5位  4点
6位  3点
7位  2点
8位  1点

ハミルトンは、アロンソとライコネンの前でゴールさえすればチャンピオン決定。
自力優勝可能なのです。

アロンソの場合、ハミルトンと4ポイント差。アロンソ優勝の場合113点。ハミルトンが112点以下となるには、ハミルトンは4位以下になる必要があります。最終戦での4ポイント差は、かなり大きいディスアドバンテージといえます。

三番手につけているライコネンの場合、かりに1位でゴールした場合総合ポイントが110点。
ワールドチャンピオンになるためには、ハミルトンとアロンソ両者が109点以下でなければなりません。

つまり、ハミルトンは7位以下、アロンソは3位以下にならない限り、ライコネンはチャンピオンになることができないのです。
いくら自分で頑張っても、自分が優勝した上、好調ハミルトンが7位以下になるとともに、アロンソも3位以下である必要がある。この条件をクリアする確立はいかほどか。

ハミルトン有利。誰もがこのように考えてていました。

前日の公式予選の結果は、やはりトップ4は4強がひしめいています。

1位 フェリペ・マッサ フェラーリ
2位 ルイス・ハミルトン マクラーレン
3位 キミ・ライコネン フェラーリ
4位 フェルナンド・アロンソ マクラーレン

ポールポジションのマッサは、チャンピオン争いから外れているとはいえ、これが母国GP。
マッサの動きも気になるところ。チームメイトのライコネンのサポートに出るのか、自分のために突っ走るのか。レースの流れによってもこの辺がどうなるのかわかりません。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年11月02日

イタリアの跳ね馬 2007年 その2

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

中国GP。ハミルトンのF1参戦初年度ワールドチャンピオンの期待がかかる。

フリー走行から好調のハミルトン。金曜の予選でもトップ。

予選順位
1.ハミルトン(マクラーレン)
2.ライコネン(フェラーリ)
3.マッサ(フェラーリ)
4.アロンソ(マクラーレン)

マクラーレンとフェラーリの4強がひしめく。

決勝当日は雨交じりの天候。
レッドシグナルがすべて点灯、そしてランプが消えてレースがスタート。

ハミルトンは1位をキープ。ファステストラップを更新しながら、2位ライコネンとの差を広げてゆく。

対するアロンソは、スタート直後の1コーナーでマッサをかわすも、再びマッサに刺されて4位キープ。
このままの状況が続けば、ハミルトンのチャンピオンの可能性が高くなる。

ところが、ハミルトンのマシンに異常が発生。リアタイヤがいかれてしまい、まともに走行できなくなる。
緊急ピットイン。

ところが、ピットロード入り口でマシンが曲がりきれずにグラベルにコースアウト。
再びコースに戻ることが出来ずに、リタイアとなってしまった。

レース結果は、ライコネン優勝、2位アロンソ、3位マッサ。
ここに来てハミルトンはノーポイント。

2007年のシリーズチャンピオンは、2週間後の最終戦、ブラジルGPに持ち越されることになった。

前戦日本GPから中国GP終了後の総合ポイントは次のとおり。
ハミルトン 107 -> 107
アロンソ 95 -> 103
ライコネン  90 -> 100

依然としてハミルトンが優性であることに変わりはないものの、3人のチャンピオン争いが最終戦にもつれ込む緊張感あふれる展開になった。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年10月27日

イタリアの跳ね馬 2007年 その1

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2007年 F1最終戦 ブラジルGP

こりゃー すごかったですね。

ワタシも、外からの情報を耳にすることなく、月曜の夜に録画を楽しむことが出来ました。
(前回の2007年 F1最終戦 ブラジルGP 日本人の苦悩参照)

いやあー、日本GP、中国GP、そしてこのブラジルGPと、目が話せない3戦でしたねぇー。

雨の日本GP、30年ぶりとなる富士スピードウェイでの開催。
チャンピオンシップトップのスーパールーキー、マクラーレンのルイス・ハミルトンを僅差で追う、同じくマクラーレンのフェルナンド・アロンソ。そして、なんとかチャンピオン争いにとどまっているフェラーリのキミ・ライコネン。

この富士では、ハミルトンが優勝する一方、アロンソがクラッシュ。ハミルトン10ポイント獲得する一方、アロンソはノーポイント。チャンピオンシップのポイントがさらに大きく開き、ハミルトンが次戦中国GPでチャンピオンを取る可能性が飛躍的に高くなった。

キミ・ライコネンは3位で、辛くもチャンピオンシップ争いに首の皮一枚で留まった。

そして翌週の中国GP。ハミルトンのルーキーでチャンピオンという、史上初の快挙が期待されたが・・・


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年10月21日

2007年 F1最終戦 ブラジルGP 日本人の苦悩

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

今日、2007年10月21日は、世紀の2007年ファイナルバトル、F1GP最終戦ブラジルGPの日です。

今年のF1は、非常にスリリングな展開、ワールドチャンピオンの確定が、最終戦までもつれ込んでいます。

前回中国GPまでのトップは、脅威のルーキー、マクラーレンのルイス・ハミルトン。それを追うのが、2年連続ワールドチャンピオンに輝いた、同じくマクラーレンのフェルナンド・アロンソ。3位は、イタリアの赤い跳ねフェラーリのキミ・ライコネン。

有利、不利の差はあれど、どの選手もがワールドチャンピオンに輝く可能性を持っています。
最終戦まで、3人がチャンピオン争いを繰り広げる展開は、近年まれ。スリリングです。

しかーし、ここに日本人であるワタシの苦悩があるのです。

ブラジルと日本の時差は-12時間。つまり、ブラジルGPは日本の真夜中に開催されます。
地上波放送は、10月22日午前0時50分から。


実は、バリバリのサラリーマンであるとともに中年のワタシ、イタル山本、月曜からの本業をスムーズにスタートさせるために、日曜夜にはきちんと就寝をします。きちんと会社からお給金を頂戴するわけですから、ここはきっちりやらないといけない。

従って、ブラジルGPは録画、あとでこれを見るわけです。
ここで、ワタシの苦悩が始まります。それは何か・・・・・

「録画を見る前に、ブラジルGPの結果を いかに自分の身の回りからシャットダウンするか」

世紀のファイナルバトルですから、その結果はマスメディアにあふれるでしょう。
しかし、結果を知って録画を見るのと、結果を知らずに録画をみるのでは、その楽しみは雲泥の差があることは、あなたも良くわかりますよね。

新聞、TV、ラジオ、インターネット。そして、自分の周りの人々からこの手の情報が入らないように、情報のアンテナを縮める必要がるのです。

ワタシの場合、ブラジルGPに限らず、F1中継は地上派でしか見ていませんので、毎回同じ努力をしています。さらに、2時間弱を確保して、録画を見る時間を作るのもなかなか難しい。次の週末まで持ち越さざるを得ないことも多々あるわけです。

ふと検索エンジンを立ち上げたとたん、レース結果が出ている、電車に乗ったら、向かいのおっちゃんのスポーツ新聞にでかでかと記事が出ている、身近な人間がレース結果を話している、本屋に行ったら速報雑誌の表紙が目に入る・・・・・・


などなど、危険な要素がたくさんある訳です。


さて、ワタシの運試しのスタートが切って落とされました。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年10月15日

ノリックの思い出

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

2007年10月7日 GPライダーだったノリックこと阿部典史が公道での事故で他界しました。
享年32歳。若い命が交通事故で奪われるのはいたたまれません。

ですが、湿っぽくなるのはノリックも喜んでくれないと思うので、ここは明るくノリックの思い出をつづりましょう。

ノリックのお父さんはオートレースのライダー。なので、ノリックも幼少のころからバイクに慣れ親しんでたんですね。15歳の時に渡米して、半年間、ダートトラックやモトクロスで修行、帰国後ロードレースに参戦しました。

1993年、全日本500CCクラスに初参戦で、チャンピオン獲得。このとき、まだ18歳ですぜ。1993年は、日本での500CCクラス最後の年。最年少で最後のチャンピオンになったんですわ。

こりゃあ、たまげました。バリ伝の現実化だぁ~~。

翌年1994年、WGP第3戦、鈴鹿で行われた日本GPにワイルドカードでスポット参戦。
実は、ワタシ、このレースを鈴鹿で見ていたんですよ。2コーナーからS字に入るあたりで。

これ、うわははははぁ、すんげえレースだったんだぜぇ~い。
いきなり下品な言い回しですが、本当にすごかった。

当時は、アメリカのケビン・シュワンツやオーストラリアのミック・ドゥーハンなどがバリバリに活躍していた時代。

ノリックは、シュワンツやドゥーハンとトップ争いを繰り広げていたのだ~~~~!!!!!!!
日本人の、まだ10代の若者が、世界のトップライダーと互角に戦っているのだ!!!!!!!

抜きつ、抜かれつ。失うものの何もないノリック。これが自分を世界にアピールする最大のチャンス。
攻める攻める。

シュワンツやドゥーハンは、「巻き込まれちゃやべえっ」てんで、引くときゃ引いてたもんな。
これからまだ先のあるワールドチャンピオンを狙っているヤツらだから、下手に接触してクラッシュ、怪我でもしたら目も当てられない。
「トンでもねえヤツにからまれちゃったよ~~」てな心境じゃなかったろうか。

こちとら、血圧200mmHG、体温40℃、心拍数150、怒髪天をつくような興奮。
目の前をつきにけるたびに「ノリックー!!!!!!!」 「いけーーーーー」の絶叫の嵐。

鈴鹿サーキット自体が興奮のるつぼと化す。


ノリックを含むトップグループがグランドスタンド前を通過してきた。
きたきたーーー!!!!いけいけーーーーー!!!!


と、目の前でとんでもない光景が炸裂した。

「「「「ノリック 転倒ぉぉぉぉぉぉぉ」」」」


1コーナーからエスケープゾーンに向けて、ノリックのマシンとノリックが一直線に転がってゆく。

「うわぁぁぁぁぁぁーノリックぅぅぅー 大丈夫かぁぁぁぁぁぁー!!!????」

ワタシの心臓はわしづかみにされたようにきゅうぅぅぅっと締め付けられた。
ワタシの顔面は蒼白となり、背中につめたいものが滴り落ちる。

エスケープゾーンをもうもうと砂埃を巻き上げて突進するホンダNSR500。
その後を追うように転がってゆくノリック。

フェンスに激突したNSR500が5mも宙を舞う。その運動エネルギーのすさまじさ。
そして、約150kgもの車体が落下する。

しかし、砂埃にさえぎられて良く見えない。
確か、ノリックもあの近くに転がっていったはず。

「!!!!!!!! ノリック、まさかNSRの下敷きになってねぇだろうな。大丈夫だよな???????」

不安がワタシの心をよぎる。


しかし、砂煙の中からすっくと立ち上がり、観客に手を振るノリックの姿があらわれた。

よかった、本当によかった。無事だったんだーーー。
いやーこの日はハッピーエンドでよかったよかった。ノリック最高だぜー。

いやぁ、本当に衝撃的な日だった。歴史の目撃者になったワタシ。

ちなみに、TV放映では、宙を舞うNSRは写されておらず、転倒、クラッシュの激しさは鈴鹿にいたワタシたち以外は知らないのだ。TVでは、単なる転倒にしか見えないのであった。

ところでこのレース、誰が勝ったか記憶にないワタシであった。


で、この日のレースがウェイン・レイニーの目に留まり、その年2回チームレイニーからヤマハでWGPにスポット参戦。翌年1995年からフル参戦することになったのです。

1996年の日本GPでは、WGP500CCクラスで優勝。日本人のWGP最高峰クラス優勝は、片山敬済の1982年のスウェーデンGP優勝以来の快挙でした。

イタリア人の現役GPライダーで、5回ワールドチャンピオンに輝いているバレンティーノ・ロッシもノリックの大ファンで、1994年の日本GPのビデオを朝学校に行く前に何度も見ていたそうです。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年10月09日

イタリアのエンジンを積んだブラバムBT48

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、前回はBT46のお話でした。

BT46は、サイドラジエターをやめたり、プロペラマシンが出たりと、当初の思惑通りに結果が出ませんでした。だけど、F1業界、日々いろいろなチャレンジをするんですよ。

チャレンジなくして、上位進出はない。

さてさて、その翌年、1979年はBT48をラウンチ。

これ、アルファロメオのフラット12をV12にして、ウイングカー化したマシン。前にも書いたように、フラットエンジンつまり、水平対向エンジンは幅が広くて、グランドエフェクトを有効に発生させるための、車体下面のデザインが出来ない。なので、V型にエンジンを作り変えることで対応したわけです。

アルファも頑張ったんですね。この時代、ウィングカーでなきゃ勝てないから。
昔は、みんなフォードDFVエンジンを使っていたんで、もっぱらコンストラクターが車体ばっかり作っていたんだけど、やっぱり車体(シャシー)とエンジンのコンビネーション、パッケージというのも大事なんですよね。アルファもそれを身をもって感じたんでしょうね。パワーだけじゃ勝負できないって。

このBT48、ウイングカーになって、サイドポンツーンでダウンフォースを得るわけで、フロントウイングがありません。フロントウィングとって空気抵抗を落としても、十分なダウンフォースを得られる、という考えですな。

しかし、成績はぱっとしなくて、ニキ・ラウダをもってしても中段にしかいられません。
結局、ニキ・ラウダはこの年をもって、F1を引退してしまうんですわ。
(ただし、後にマクラーレンでニキ・ラウダは復帰、3度目のワールドチャンピオンになっちゃうんだよね。とんでもない男です。)

で、この年のカナダGPから1980年、ブラバムはアルファロメオのエンジンをやめて、FORDコスワースDFVに変えました。

翌年1980年は、BT49に進化。軽量、コンパクトなエンジンで、グランドエフェクトも有効に使えることから、パフォーマンスは上がりました。ネルソン・ピケが優勝もしています。エンジンパワーはアルファロメオより劣るけど、マシン全体としては早い車になったということです。

この時代は、エンジンパワーが物を言わない時代だったんですね。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年10月03日

イタリアのエンジンを積んだブラバムBT-46の思い出

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

アルファロメオの話をすると、どうしてもブラバムに行き着いちゃうので、今回は最初からブラバムのお話で。

1977年にフェラーリで2度目のワールドチャンピオンに輝いた翌年、ブラバムへ。このときのマシンがBT-46 。この車、試作の段階では、車体側面に薄いラジエターを張り巡らせた、表面冷却のアイデアがだめされていました。

しかし、実際には効果がなかったようで、結局レースに使われたのはスポーツカーノーズの中にラジエターを埋め込んだ、良くあるスタイルになってしまった。

この車、ラウダの腕をもってしても勝てない。で、スウェーデンGPで登場したBT-46Bは、リアに大きなプロペラをつけていて、車体の下の空気を吸出してダウンフォースを得て、見事優勝。ただし、参戦はこの一戦のみ。これは、前々回も書いた話ですな。

当時、この記事がオートスポーツで大きく取り上げられました。私は買いましたよ。表紙にでっかいBT-46Bの写真が載ってるんだよね。

で、コースアウトすると、土ぼこりが竜巻のようにまきあがるんだ。これも写真が載っていた。

結局、アルファロメオの水平対抗12気筒エンジンは、その大きさから、ロータスのようなウイングカーにすることが出来ないんで、むりやりプロペラをつけちゃったという寸法。

でね、空力デバイスは車体に固定されていなきゃいけない、ってルールがあるんだけど、このプロペラ、ラジエター(車体の上面にある)のための空気を吸い出すものですっ、てブラバムはいってたわけよ。
方便だよね。車体の下にもあながあんのにさ。

そんで、優勝なんかしちゃったもんだから、他のチームから文句言われて、結局次のGPからは使えなくなっちゃったというわけ。

表面冷却とか、サカーカー(サカー すいとるってな意味で、オートスポーツ誌ではこう呼ばれていた)とか、おんもしろいものを出してたんだよね、この時代のブラバムは。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年09月27日

イタリアのF1参戦メーカー アルファロメオ その2

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、アルファロメオのV12エンジン、パワーはあるけど、大きくて重くて、燃費が悪かったそうな。
漫画なんかで良く出てくるキャラだねぇ。判宙太か。

現代F1だと、燃費が物を言うから使い物にはならないだろうけど。

いずれにしても、当時はレース中の給油やタイヤ交換なんかないから、でかいエンジンで、ガソリンいっぱい積んで、かな~り重たい状態でブラバムアルファロメオはスタートしていたんだろうな。

ガソリンいっぱい積んでると、ガソリンがたくさん入った重い状態と、ガソリンが少なくなった軽い状態でかなりの重量さがあるから、大変だったろうね、ドライバーさん。

元をただせばこのエンジン、グループ6のスポーツカー用で、かなり活躍していたんだそうだ。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年09月21日

イタリアのF1参戦メーカー アルファロメオ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

出た、最近は日本でも人気のアルファロメオ。

ワタシがF1に目覚めたころ、え~と、中学のころなので1976年とか1977年とかですな。
当時のアルファロメオの市販車といえば、アルフェッタGTとかアルファスッド。

アルフェッタはトランスアクスル方式、つまり、トランスミッションとデフをいったいにしたヤツですな、これを採用していた、味のある車ですわ。

アルファスッドは、スバル1000を参考にして作ったんだとか。

当時のワタシは、花形 満とちがって車を運転できませんから、雑誌その他の受け売り知識ですが~。
記憶のままに書いているので、ちょっくら間違いがあったらごめんなさいませ。

で、そのころF1におけるアルファロメオといえば、エンジンサプライヤー。ブラバムにエンジンを供給しておりやした。
アルファロメオを意味する赤いボディに、マルティニのストライプ。

エンジンは水平対抗12気筒。当時は、フェラーリも水平対抗12気筒。当時はV型ははやりじゃなかったんですな。


ブラバムBT-45とか、45Bとか。BT-46Bなんつう、車体の後ろに換気扇くっつけたようなお化けマシン(当時のウィングカーに対抗して、ファンで車体下の空気を吸い出してダウンフォースを得る)も登場、ドライバーニキ・ラウダにより、デビュー戦で優勝するも、このファンは規定違反とみなされ、この1戦のみで姿をけしたのだ。

おっと、アルファロメオの話が、ブラバムになっちまった。

ではまた次回。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年09月15日

イタリアのF1参戦メーカー ランボルギーニ2

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

今回は、 ランボルギーニの2回目です。

ランボルギーニがF1でエンジンを提供したのは以下のチーム

ラルース - 1989年~1990年、1992年~1993年
ロータス - 1990年
リジェ - 1991年
モデナ - 1991年
ミナルディ - 1992年

こうやって見ると、長期的に協力関係を保っていたチームはないですね。
1993年には、エンジンを再設計、マクラーレンへの供給を考えていました。事実、マクラーレンもテストしたにもかかわらず、結局マクラーレンはプジョーと握手。
結局、ランボルギーニはF1参戦をあきらめることになりました。

エンジン自体はフェラーリを上回る、という、当時の評価もあったようです。残念ですね。
供給先がトップチームじゃないと、エンジンの力だけではいかんともしがたいF1の世界です。

ちなみにランボルギーニの経営は、現在アウディの傘下になっています。
ここに至るまでにも、いろいろ経営が変わっています。

1974年に倒産、イタリア政府の管轄化に置かれます。これは、BMWから委託されていたM1(これ、ミッドシップのスポーツカーですね)の生産が遅れによって、契約を破棄されたためです。

1978年、フランス人のパトリック・ミムランという実業家がランボルギーニを買収。

1987年には、クライスラーの傘下。

1993年、インドネシアの目がテック社に譲渡

1999年、アウディの傘下へ。2006年には、ル・マン24時間レースに参戦して、クラス8位になりました。

これからも頑張れ、ランボ


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年09月09日

イタリアのF1参戦メーカー ランボルギーニ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

前回まで、ミナルディを連載していました。
ミナルディって、調べれば数限りなくいろいろな話が出てきます。もう、際限ないです。
なので、ミナルディは前回で終わり。

今回は、 ランボルギーニです。

ランボルギーニとくりゃあ、相方はフェラーリですね。
私らスーパーカー世代にとっては、ランボルギーニは憧れでした。

フェラーリはバンバンレースをしているんだけど、ランボルギーニは、レースはでてませんでした。
しかし、フェラーリに匹敵するミウラや、ペッタンコのカウンタックなど、フェラーリ以上にインパクトのあるスーパーカーに、我々小僧はめろめろになったもんです。

もともと、ランボルギーニを興したランボルギーニさんは、トラクター屋さん。フェラーリを所有していたんですが、クラッチに欠陥があるって、フェラーリに文句を言ったそうな。
で、フェラーリを自分で改造するうち、とうとう自前で自動車を作るようになったとか。

もともと、ランボルギーニは、レースには出ないメーカーだったんだけど、クライスラーの傘下に入った後、1989年にラルースにエンジンを供給してF1に参戦したんだな。

ラルースランボは鈴木亜久里が日本GPで3位に入賞したよなぁ。
オレ、そのとき鈴鹿に行って観戦してたんだ。1990年だったよ。

このときは、ネルソン・ピケ、ロベルト・モレノのベネトンが1-2で、モレノがうれし涙にぬれていたんだよね。うるうる。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年09月03日

イタリアのF1チーム ミナルディ 5

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

いやあ、ミナルディも今回で5回目です。

レースでは、万年下位争いをしていたミナルディです。しかし、ミナルディにも突き抜けていたことがあるんですね。

なんでしょう~???

正解は:


ごはん でした。


F1チームはモータホームってのを所有してますよね。ほんで、メンバー用に食事をだしたりしてる。
ミナルディの食事はとてもうまかったんだとか。

アイルトン・セナさんなど、他チームのドライバーもちょくちょく遊びに来て食べていたらしい。

チームは財政難で、マシンはへぼへぼでも、ひとの力に源、食事はけちらなかったんだねぇ。

ちなみに、パスタとエスプレッソがダントツでうまかったってさ。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年08月28日

イタリアのF1チーム ミナルディ 4

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

ミナルディって、有望な若手がデビューしたり、有名ドライバーが(峠をすぎて)所属したチーム、というイメージもありますよね。

ミナルディのシートに座ったことのあるドライバーをパラパラ挙げてみましょう。

アレッサンドロ・ナニーニ (ベネトン時代に、ヘリコプター事故に遭ってしまった)
マーク・ウェバー (デビュー戦2002年、地元のオーストラリアGPで5位)
フェルナンド・アロンソ (この人の説明は要りませんね)
ジャンカルロ・フィジケラ (今やベテラン、今年はルノーだ)
ヤルノ・トゥルーリ (トヨタを引っ張る男)
アンドレア・デ・チェザリス (ミスタークラッシュ)
クリスチャン・フィッティパルディ (ブラジルの英雄エマーソン・フィッティパルディの甥っ子)
アレッサンドロ・ザナルディ (CARTで1997年1998年と、チームガナッシでチャンピオン)
ミケーレ・アルボレート (フェラーリで早かった)
アンソニー・デビッドソン (スーパーアグリ、もう1人のドライバー)
ピエルルイジ・マルティニ (ミスターミナルディ)
片山右京 (カミカゼ ウッキョさん)
中野信治 (しんちゃん おらぁ~おねいさん)
ロベルト・モレノ (頭の薄い苦労人 ワタシャ好きですな)

これ、結構すごいラインアップですよね。

だけど、ワタシは、いつ、だれがドライブしていたのか、あまり印象にないんですな。
片山右京とヤルノが一緒に走っていた1997年とか、右京引退を受けて翌年加入した中野信治とか。

常に下位争い、かつ、しょっちゅうドライバー交代が行われていたので、よほどのミナルディファンじゃないと、記憶できません。

カルトクイズ Q&Q でもやりますか、なんてね。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年08月22日

イタリアのF1チーム ミナルディ 3

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

ちなみに、ミナルディはF1からはいなくなったものの、その後もモータスポーツの世界にはその名を残しています。

ジャンカルロ・ミナルディは、ユーロF3000にミナルディ チーム として、2006年から参戦しています。またGP2、これは旧国際F3000ですね、ここにはネルソンピケのピケスポーツと共同で、2007年より参戦しています。

ユーロF3000て、元はイタリアF3000。2001年にチャンピオンになったフェリペ・マッサは、現在F1フェラーリチームで活躍中。また、シリーズチャンピオンになると、F1参戦に必要なスーパーライセンスが発給されます。

以前は、国際F3000に参戦できないドライバーの行き場所のような感じがあったようですが、その存在意義も向上、ミナルディの参戦でより注目されるシリーズになってきています。


一方、2001年から2005年までミナルディのオーナーだったポール・ストッダートが、ミナルディチームUSAとして、米のチャンプカーシリーズに2007年から参戦しています。

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2007年08月16日

イタリアのF1チーム ミナルディ 2

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

ミナルディのその2です。

ミナルディの印象といえば、いつ消えてもおかしくないような弱小チームなれど、しぶとくF1で生き続けている  そんな感じですな。

2005年に幕を閉じる20年間、ミナルディというチームは存続していますが、その経営は紆余曲折があったんですねぇ。


ミナルディ、もとは1980年に、ジャンカルロ・ミナルディがF2チームとして設立しています。ミナルディ一族というのは、もともとイタリアのフィアットディーラーをやっていたんですな。で、1985年にF1にやってきました

1994年には、スクーデリア・イタリアを吸収合併。

1996年、フラビオ・ブリアトーレ(当時のベネトンマネージャー)がチーム代表となる。チームの所有権の一部を取得したので。

ところが、1997年には、ガブリエル・ルミが代表に。ルミさん、フォンドメタル社の人です。この年には、フォンドメタル社が経営に参画したんですな。

しかし、2001年には、ポール・ストッダート氏がチームを買収しました。この人、ヨーロピアン航空の社長です。

ジャンカルロ・ミナルディ氏は、その後もチームに残っており、経営は変われど、ミナルディの血脈はチームに流れていたのです。

そして、最終的には2005年にレッドブルがチームを買収、チームミナルディは幕を下ろし、あらたにレッドブルのジュニアチーム、トロ・ロッソとなったのです。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年08月10日

今回のイタリアF1チームはどこだ?

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

こんにちは~
暑い日が続いています。皆さんお元気ですか。

今回は、クイズQ&Qでスタートです。
この成績をもつチームは、さて、どのチームでしょう?

参戦 1985年 - 2005年
出走 - 340レース(歴代7位)
総獲得ポイント - 38ポイント
予選最高位 - 2位(1990年第1戦アメリカGP)
決勝最高位 - 4位(1991年第3戦サンマリノGP、1991年第13戦ポルトガルGP、1993年第1戦南アフリカGP)
コンストラクターズ・ランキング最高位 - 7位/18チーム中(1991年、6ポイント)

イタリアのチームで、長期にわたりF1GPに参戦するも、下位から中堅に甘んじていた、あの愛すべきチーム。

今はそのチーム名さえなくなってしまったが・・・・

そうです。今回は ミナルディ です。

2005年にレッドブルに売却され、現在はレッドブルのジュニアチーム、トロ・ロッソになりました。

このチームも、いろいろな話題がありますよね。

日本人であるワタシにしてみれば、日本人がドライブしたことのチームとしての印象があります。

片山ウッキョさん。ウッキョさんは、ミナルディを最後のチームとして、F1ドライバーを引退しました。1997年ね。

最後の年はのチームメイトは、現在はトヨタで頑張っているヤルノ・トゥルーリ。
ヤルノは、ウッキョさんより早かったんだけど、ウッキョさん、ヤルノをとてもかわいがっていて、いろいろなことを教えてたんだそうです。

チームからは、次の年もミナルディで走ってくれって、ウッキョさんにはオファーがあったらしいんだけど、やっぱり後輩の育成っていうのはF1を続けるモチベーションじゃあないってことを認識して、引退を決めたとか。

確かにこの人、自分でがんがんチャレンジしていく姿が似合ってますなぁ。

ちなみにウッキョさん、ワタシより1日人生の後輩です。
単に彼の誕生日が、ワタシの誕生日の次の日ってことなんですけどね。

あと、ミナルディをドライブした日本人は、中野信治ね。ウッキョさん引退の次の年、1998年でした。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年08月04日

イタリアのF1チーム フォンドメタル

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

前回の、オゼッラを1991年に買収して出来たチームが、このフォンドメタル。
チームオーナーのガブリエル・ルミさんは、レーシングホイールを政策しており、オゼッラをスポンサードしていました。

オゼッラは慢性的に資金不足だったため、フォンドメタルが買収したのですが、成績が伴うことはなく、翌年1992年にフォンドメタルはF1を撤退しています。

ちなみに、フォンドメタルはF1参戦をやめた後も、F1へかかわり続けています。

たとえば、フォンドメタルの風洞実験設備はなかなかのもので、ティレルやベネトン、ミナルディも利用していました。ああ、いずれのチームも、今はF1には居ませんねぇ。

それから、2000年には、ミナルディに、フォンドメタルV10エンジンを供給しています。これは、コスワースV10をベースにしたものですね。

こちらの、フォンドメタルのオフィシャルサイトに、写真入りで紹介されてます~。

http://www.fondmetal.com/index.php?option=com_content&task=view&id=54&Itemid=233&lang=en

http://www.fondmetal.com/index.php?option=com_zoom&Itemid=247&page=view&catid=47&PageNo=1&key=0&hit=1&lang=en

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年07月29日

イタリアのF1チーム オゼッラ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

今回も、マイナーなチームですな。イタリアは、数多くのF1チームを輩出しておりますけれど、長く生き残っていくのは至極難しいです。

イタリアに限らず、いくつもの有力チームが姿を消している世界ですからね。ロータス、ブラバム、ティレル、リジェなどなど。撤退や、買収されるなどで、その名を消しています。

今日紹介するイタリアのチームは オゼッラ。1980年kから1991年まで参戦。

チームオーナーは、エンツォ・コローニ。この人は、もともと、スポーツカードライバーだったんですが、自分の参加するチームを自分で引き継いだのです。その後チームはF2に参戦、1980からF1に。

参戦期間、通算5ポイントを獲得。
1982年のサンマリノGP4位3ポイント、ドライブするのは、ジャン・ピエール・ジャリエというフランス人。
そして、1984年アメリカGP5位2ポイント。イタリア人ドライバー、ピエルルイジ・ギンザーニのドライブです。

当時は、現在とはポイント付与の仕方が異なっています。入賞は6位まで。1位8ポイント、2位6ポイント、3位4ポイント、4位3ポイント、5位2ポイント、6位1ポイント。

エンジンは、1980年から1982年までがフォードDFV V8、1982年から1987年がアルファロメオV8、1988年はオゼッラ、以降、フォードDFR V8を使用しています。

1991年に、スポンサーだった、ホイールメーカー、フォンドメタルに買収されてチームは幕を閉じました。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年07月23日

イタリアのF1チーム ダラーラ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

アローハ イタル山本です。
今日はハワイにきています。南国気分を満喫しています。

この前、ドイツニュルブルクリンクで行われたヨーロッパGP、荒れましたねぇ。
ハミルトンは入賞圏外。アロンソ優勝、マッサ2位で、チャンピオン争いがますます面白くなってきました。

さて、今週はダラーラ。ダラーラといえば有名なレーシングカーのコンストラクターです。実はF1にも手を出していたのですが、成功したとはいえませんでした。

オーナーはジャンパウロ・ダラーラト言う人で、フェラーリ、マセラッティ、ランボルギーニの設計を担当していたことがあります。
1959年には航空力学の学位を得ている、エンジニア畑の人ですね。

F3
インディ・カー・シリーズ(IRL)
GP2
ワールドシリーズ・バイ・ルノー
インディ・プロ・シリーズ

など、各種カテゴリーの車を製作しています。

F1では、
1988年から1992年まで、スクーデリアイタリアと提携して車体を提供、1999年には、本田が設計したテストシャシーRA099を、
本田の依頼を受けて製造。
2004年、2005年にはMF1と共同で車体を製作する計画を進めるも、ポシャッてます。

他のカテゴリーの有力チーム、コンストラクターであっても、F1参戦はきわめてハードルが高いのですね。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年07月17日

イタリアのF1チーム モデナ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

いかにも、イタリアのチームという、名前。モデナ。

しかし、知っている人はいるんでしょうかねぇ。1991年、1年のみの参戦です。
モデナというと、根暗のイタリアンレーシングドライバー、ステファノ・モデナのほうがずっと知名度は上ですよ。

なんといっても、検索エンジンで、チーム モデナを探そうとしても、ほとんどヒットしませんからね。

エンジンは、ランボールギーニV12を積んでます。当時は、ランボも、エンジン供給でF1に参戦してました。

ドライバーは、ニコラ・ラリーニとエリック・ヴァン・デ・ポール。

このチームが出来るまでには、ちょっとしたごたごたがあったんですな。
イタリアのチームとして、F1参戦したものの、もともとはメキシコ発。フェルナンド・ゴンザレス・ルナつう、メキシコ人のGLASっていうチームから始まってます。

このGLASが、ランボルギーニと、シャシーとエンジンの開発契約を結んだのですが、フェルナンド・ゴンザレス・ルナさん、資金を持ってとんずらしちゃった。

でしょうがないんで、 ルロ・パトルッコというイタリアの資産家とランボがモデナとして参戦したそうな。

ワタシも、そんなチームがあったことは、覚えているんだが、どんな車だったのか、わからないのであった。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年07月11日

イタリアのF1チーム トロ ロッソ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

今回は、トロ ロッソ。

イタリアのファエンツァを本拠地にしているチーム、2006年からF1参戦。
2005年までF1参戦していたミナルディーを買収して生まれたチームです。

トロロッソ(Toro Rosso)って、イタリア語でいうところのRed Bullという意味でして、Red Bullのジュニアチームという位置づけになりますな。2005年11月1日に、レッドブルがミナルディを買収したんです。

2006年には、あのゲルハルト ベルガーが50%の式を取得してます。

2007年のエンジンは、フェラーリですよ、なんと。イタリアエンジン。これ、もともとレッドブルがフェラーリエンジンの供給契約を持っていて、これを譲ってもらったんですな。

ちなみに、レッドブルって、タイで開発されたスタミナドリンク。
オーストリア資本の会社が輸出販売をしていて、日本でも販売されてます。ワタシは見たことないですが。コンビニで売っているらしい。

あ、先日渋谷で、ミニのレッドブル仕様を見た。背中に、バズーカ砲のように大きなダミーの缶を乗っけてました~。

どっかで売っているのをみたら、飲んでみっかな。

では~。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年06月29日

イタリアのF1チーム アンドレア・モーダ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

前回はコローニでした。で、このコローニをイタリアのブーツメーカーのオーナー、アンドレア・サセッティが買収してできたのが、アンドレア・モーダ。F1参戦は1992年のみ。

しかし、よく予備予選も通らないチームを買収しますな。道楽か。

なんと、実際に参戦できたのは、第3戦ブラジルGPからだそうで。
第1戦は、金欠で欠場。つまり、FISA(国際自動車スポーツ連盟)に収めるべき保証金が未払いだったためなのだ。

そして、第2戦は、機材がサーキットに届かないという、言いようのないアクシデントで出場できず。
しょっぱなからくじけてました。

エンジンは、ジャッドGV V10。このエンジン、ホンダRA100Eをベースに開発されたもの。

決勝レースを走ったのは、一回だけ。しかし、これがモナコなのだ。
ロベルト・モレノの頑張りで、予選26番手、見事出走。結果はリタイアだったけど。

チームの最後は悲惨。チームオーナーが逮捕され、F1から去ることとなりました。何でも、ベルギーでの通関書類を偽造したためのようです。

悪いことはできません。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年06月23日

イタリアのF1チーム コローニ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

前回、ライフときたら、今回はコローニでしょう。

エンツォ・コローニという人の率いるチームで、もともとコローニはイタリアF3の強豪だったのだ。
F1には1987年イタリアGPから1991年まで参戦。

このチームで特筆すべきこと


1.スバルのエンジンを積んでいた

実は、スバルはF1に参戦していたことがあるのだ。
1990年、スバルとモトーリモデルニの共同開発なる水平対抗12気筒エンジン。グランプリ・エンジン創出者カルロ・キティ 博士がデザイン、モトーリモデルニが製作したもの。

あいにく、予備予選もまったく通過できず、結局スバルはF1から撤退してしまうのである。

スバルエンジンがなくなったコローニは、フォードコスワースDFRにエンジンを載せ変えて何とか参戦を続けたのであった。


2.日本人がドライブしていた

1991年、当時有望な若手であった服部尚貴がコローニをドライブしている。開幕戦オーストラリアGPおよび日本GP。しかし、予備予選を通過することは出来なかった。


3. 耳なし方芳一式スポンサー

資金不足のコローニは、ついに世の一般人をもスポンサーにしていた。日本GP参戦にあわせ、一口2万円で個人のスポンサーを募ったのだ。車体には、スポンサー個人名がお札のように貼り付けられていた。スポンサーになった人には、証明カードと時計が送られたそうだ。


その後、チームはアンドレアモーダーに買収されて、アンドレアモーダとして1992年まで活動を続けるが、そこで歴史の幕は下ろされたのであった。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。


2007年06月17日

イタリアのF1チーム ライフ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

キミはライフを知っているか!

今日は、2007年F1第7戦アメリカGP。第6戦では6位3ポイントをとった佐藤琢磨選手でした。ここ、インディアナポリスでは、かつて3位表彰台を取ったところ。予選順位はいまひとつでしたが、ゲンの良いサーキットなので、頑張ってくださいね。

さて、今回は、イタリアF1チーム、ライフについてです。

ライフって知ってます?
知らない人が多いじゃないかな。えらくマイナーです。
でも、すごいチームです。

え~、ライフって、1990年にF1参戦していたチームです。


すごいぞ!その1

参戦GP、全戦予備予選落ち。

たとえば第9戦ドイツGPでの予備予選結果
順位 ドライバー コンストラクター エンジン
1 P.アリオー リジェ フォード
2 N.ラリーニ リジェ フォード
3 O.グルイヤール オゼッラ フォード
4 Y.ダルマス AGS フォード
5 G.タルクィーニ AGS フォード
6 R.モレノ ユーロブルン ジャッド
7 B.ガショー コローニ フォード
8 C.ランジェス ユーロブルン ジャッド
”9 B.ジャコメリ ライフ ライフ”

すごいぞ!その2

超絶のエンジン。

W型12気筒!!!!
4気筒を3つ並べたW型エンジン。Life L190/1というマシンに、ライフ製のこのエンジン。フォードとか、ジャッドとかのエンジンじゃなくて、自前、それも前代未聞のW型ですぜ。

エンジンの全長を短く、かつパワーを出すべく12気筒。うわあ、めちゃくちゃチャレンジャー魂の塊です~。

さすが、イタリアン。やることに夢があるぞ!

しかし、前述の通り、予備予選さえまともに走らずじまいだったねぇ。

かく言うワタシも、ライフが走行している映像を見たことがありません。


ちなみに、ドライバー。

ブルーノ・ジャコメリ
イタリア人ドライバーです。

この人、ベテランでね、1952年生まれ。F1も、1977年から1983年まで出走しているし、ポールポジションや、3位表彰台に立ったこともあります。

そのジャコメリをもってしても走らなかったライフ。

メーカーの威信がひしめく現在のF1では考えられないような、夢のチームが参戦していた1990年でした。

そういえばこの年は、スバルも水平対抗12気筒エンジンをさるチームに供給していたなぁ。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年06月11日

佐藤琢磨 スーパーアグリ 2007年F1カナダGP6位入賞3ポイント

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

やった~ スーパーアグリ 佐藤琢磨 カナダGP 6位入賞~~~ おめでとう!

いやぁ~、すばらしい。よもやこんなことになろうとは。
琢磨君、今年を見ると、ホンダ(BAR)に残留しなくて正解だったねっ、て感じだね。

昔、ウォルターウルフのウルフWR-1が、ジョディ・シェクターのドライブで、デビュー戦で優勝する、という快挙がありましたが、当時はほとんどがプライベーター。

ほとんどがフォードDFVエンジンを積んでいるという時代。ハーベイ・ポスルズウェイト(後に、中嶋悟や片山右京がドライブしていた時代のティレルのデザイナー)が手堅く開発したマシンでも、勝てた時代。

今や、フェラーリ、メルセデス(マクラーレン)、ホンダ、ルノー、BMW(ザウバー)、トヨタ、と、世界の大メーカーが群雄割拠する現代F1

出来たばかりの、弱小プライベーターが立ち向かうのは、そんな巨人たちである。
これら6メーカー12台のマシンに加え、プライベーターながらF1トップチームのウィリアムズの2台を相手に戦うのだ。

プライベーター(ウィリアムズは除く)は、1ポイント、すなわち10位に入賞することすら厳しい。

6メーカ+ウィリアムズの7チーム、14台のマシンを切り崩さなければならない。運よく、これらのチームの内、5台がつぶれたときに、中堅、弱小プライベーターのトップを走っていなければならないのだ。

昨年、第1戦バーレンGPのグリッドにつくことさえ奇跡といわれた、スーパーアグリのF1参戦。
2年目にして、8位、6位と2度の入賞。

不可能を可能にした、とさえ思えるのだ。

やる気、元気、本気

スーパーアグリには、これが満ちているに違いない。

出来ない、と思えば出来ない。

しかし、ひたすら希望を捨てずにがんばり続ければ、成功を信じて、成功するまであきらめずに続ければ、願いは必ずかなうのである。

スーパーアグリと佐藤琢磨は、それを現実の姿として見せてくれたのだ。
鈴木亜久里と佐藤琢磨の求心力、人をひきつけ、やる気にさせる力。
フェラーリを立て直したミハエル・シューマッハよりもすごいぞ。

ああ、この時代に生きていてよかった。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年06月05日

スクーデリア イタリア

こんにちは お元気ですか?

ここ、東京では、梅雨入り前のさわやかな気候です。今をエンジョイしないとね。

さて、今回は、新シリーズ、イタリアのチームシリーズ。その第一回は、これぞまさに、イタリアって言う名前。

スクーデリア・ イタリア

ここも、弱小チームですな。参戦は、1988年から1993年まで。シャシーは、ダラーラやローラに作らせていたため、F1レギュレーションで言うところの「コンストラクター」ではないんですな。

このチーム、イタリアの鉄鋼業を経営する、ジュゼッペ・ルッキーニが作ったんです。ワタシャ知らないひとですが。

F1の前は、スポーツカーレースや、ラリー、ツーリングカーレースに参画していたんだ。

1992年と1993年は、フェラーリのカスタマーエンジンを積んでいます。
赤い車体が、遠くからみると、フェラーリっぽかったけどね。

しかし、やっぱ、結果はでなかった。
で、F1から退く。

結局、チェザリスとJ.J.レートが3位表彰台にのぼっているので、通算表彰台2回。通算ポイント15。

しかし、よくフェラーリのエンジンのっけたな。さすがイタリアのチームだね。

スーパーアグリにホンダエンジンってところかな。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。


2007年05月30日

日米欧をまたにかける男

この前の日曜日に行われたモナコGPは、マクラーレンの1-2フィニッシュ。チームオーダー疑惑がある、というようなうわさもあるようですが。

アロンソさん、おめでとう。ハミルトンは安定して早いね~いつも。

前回触れたインディ500のダニカ パトリックは、8位でした~。

あ~、実は今回、両レースとも中継見てない。私は、日曜の夕方にアメリカから帰国したのですが、時差によるあまりの眠さに、ビデオをセットすることもなく、9時には落ちていった私でした(ToT)

ま、こんなときは、さらっと割り切ってしまいましょうね。

イタリア、インディ、そして日本と来ればこの人。

ロジャー安川

この人、アメリカはカリフォルニア州、ロサンゼルスで生まれてます。プロフィールによれば、日本とイタリアで育つ、と書いてありますね。で、日本で小学校を出た後、中学はアメリカ、高校はイタリア、でイギリスに行って、またアメリカに来ているとのこと。国籍は日本だそうです。

ちなみに、アメリカで生まれた人は、みんなアメリカ国籍を持つことができます。たとえば、日本人の夫婦がアメリカに住んでいて、子供が生まれたとします。

すると、アメリカからは、アメリカの国籍がもらえるのです。一方、日本の法律では、日本人から生まれた子供は日本の国籍がもらえます。つまり、この子は、アメリカと日本、両方の国籍を持つことができるのです。

ただし、日本は、二重国籍が認められていません。したがって、その子供が21歳の時点で、どの国籍を選ぶかを選択する必要があのです。

ちなみに、アメリカは、二重国籍を否定していません。私が会ったドイツ人は、サンフランシスコで生まれたそうで、その人は二十何歳でしたが、ドイツとアメリカの両方の国籍を持っているといっていました。ドイツは二重国籍OKなのかなぁ。


さて、話をロジャー安川に戻しましょう。

ロジャー安川、2003年から、インディカーシリーズに参戦しています。
今年のインディ500はスポット参戦で、21位でした。

そもそも、彼は小学生の時からゴーカートに乗っていて、レースに興味があったんですな。
で、13歳のとき、お父さんの知人がカリフォルニアでゴーカートショップを経営しているので、ここにホームステイをした。そして、KARTに参戦。

14歳で、 ジュニア・カリフォルニア州チャンピオンになるのですが、15歳の時に、ベルギーのジュニア選手権に参加、レースならアメリカよりヨーロッパだ、実感したそうです。そして、トップドライバーになるためにイタリアに行きました。

ううむ、ぶれてない。目標に向かって着実に進んでますね。

彼のレース暦は下記のとおり。1990~1996年が、上記、米、伊でのKART参戦時代ですね。

1990-1992 米国でKARTに参戦、1991年ジュニア・カリフォルニア州チャンピオン
1993-1996 イタリアでKARTに参戦、1996年セントロ・アシステンツァ・チャンピオン
1997 フォーミュラ・ヴォクソール・ジュニア・シリーズ
1998 フォーミュラ・ダッジ・ウェスタン・シリーズ・チャンピオン(11戦中10戦優勝)
1999 バーバー・ダッジ・プロ・シリーズ、ランキング9位、新人賞
2000 バーバー・ダッジ・プロ・シリーズ、ランキング7位
2001 バーバー・ダッジ・プロ・シリーズ、優勝1回、ランキング4位
2002 トヨタ・アトランティック・シリーズ、優勝1回、ランキング10位
2003 IRLインディカー・シリーズ、ランキング12位
2004 IRLインディカー・シリーズ・スポット参戦
2005 IRLインディカー・シリーズ:ランキング17位
2006 IRLインディカー・シリーズ・スポット参戦
2007 第45回デイトナ24時間レース:6位
IRLインディカー・シリーズ・スポット参戦

海外で、世界の競合と戦っている日本人、応援したくなりますね。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年05月25日

アメリカの空の下

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

こんにちは、イタル山本です。
今回は、アメリカはカリフォルニア州、ディスにーランドのあるアナハイムの隣のフルトンに来ています。
実は、先週の金曜にワシントンDCに入り、一仕事した後、別の仕事でここ、フルトンに昨日から入りました。

てなわけで、今回もちょいと横道にそれそうですが~~~。

今週は、モナコGPウィーク。と同時に、ここアメリカでは、インディ500ウィークです。5/27 日曜日が決勝です。

というわけで、今朝の新聞、USA Todayのトップを飾ってるのは、なんと

ダニカ パトリック!!!

ダニカ パトリック


インディ2人目の女性ドライバー。

F1の女性ドライバーは、レラ ロンバルディやジョバンナ アマティ(いずれもイタリア人)などがおりますが、成功したとはいえません。

ダニカは違う。インディ500で優勝できるか!!という話題になってしまうほどだ。そして、新聞の1面をカラー写真で飾ってしまうのである。米国でもっとも著名な女性アスリートなのだ。さらに、彼女はモデルもしているという。

今年は、イタリアンアメリカンのグレイトドライバー、マリオ・アンドレッティの息子、マイケル・アンドレッティがオーナーを勤める、アンドレッティグリーンレーシングに所属している。

身長157cm、体重45kg。結構小柄なんだな。しかし、写真で見ると、そんなに小柄に見えない。いやぁオーラがでかく見せているのかもね。

ダニカのオフィシャルサイトはこちら。http://www.danicaracing.com/
ダニカの視線にさされそうになるぞ。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年05月18日

感動感動ただ感動のスペインGP やっぱりオレは日本人

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

久々に燃えた~!!!
2007.5.13 F1第4戦スペインGP。スーパーアグリ、佐藤琢磨 8位入賞!!!

昨年の開幕戦 バーレーンGP。そのスターティンググリッドに並んだことさえ現代F1の奇跡と言われた、スーパーアグリの参戦。

そのスーパーアグリ、2年目、第4戦目にして、入賞を勝ち得た。鈴木亜久里代表、佐藤琢磨、そしてチームメンバー、サポーターの熱意あってのことでしょう。

F1では、万年下位チーム、すぐに消えてしまうチームが多い中、こりゃあ手放しで大拍手です。

いやあ、国際映像で、佐藤琢磨とイタリアンドライバー、ジャンカルロ・フィジケラ(ルノー)の8位争いバトルがばんばん放映されてました~。8位で入賞1ポイント、9位では入賞圏外のノーポイント。大きな差です。

そういう天国と地獄の境の、せめぎ合いですから、国際映像になりやすい、さらに追う側は、去年の新参チームスーパーアグリ、追われる側は、チャンピオンのフェルナンド・アロンソが抜けたとはいえ、去年のチャンピオンチームのルノー。

こりゃ、絵になります。一気に、スーパーアグリとTAK SATOの知名度は急上昇。

スーパーアグリは、ホンダエンジンを積んでますが、本家のホンダは、バリチェロ10位、バトン12位。スーパーアグリ、本家を完全に食ってます。

そういやあ、本家トヨタよりも、トヨタエンジンを積むウィリアムズの方が成績いいですから、今年の本家はいまいちですなぁ。

ま、それはさておき、スーパーアグリは、かつての弱小チームと違って、ホンダのサポートがあるからなぁ、と言う人もいるでしょ。ぜったいいるよ、そういう人。

しかし、そもそも、メーカーからバックアップをしてもらえる状況を作るってこと自体がとてもすごいこと。それができる鈴木亜久里という男もやっぱりすごい。人をひきつけるだけの熱意がある。

男子たるもの、そうありたいねぇ~。

今回は、わがイタリアンドライバー、フィジケラが琢磨に抜かれちゃったけど、やっぱりこうなりゃ日本を応援するでしょ。

ワタシャ、ニューヨークに住んでたことがあるけど、海外に住めば、今まで以上に自分が日本人であることを意識するんですよ。そして、日本のよいところと悪いところを客観的に見るようになる。

同時に、アメリカのよいところと悪いところも客観的に見る。

そして、両国がますます好きになるとともに、やっぱりオレは日本人だなぁ、アメリカも好きだけど、日本が一番だなぁ、と実感するのだ。

自国を愛することって、やっぱりすばらしいことだと思うよ。そして、やはり自国を愛する他国の人を尊重すること。これ、すごく重要なことですわ。

イタリアも好きだけど、やっぱり日本が一番。日本人、日本チームを応援することに、一分の迷いもありません。

あなたもイタリアに留学したら、この気持ちがわかると思うよ。

スーパーアグリバンザーイ、琢磨バンザーイ


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年05月12日

イタリア イモラサーキット(エンツォ・エ・ディノ・フェラーリ・サーキット)

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

今年はなくたってしまったサンマリノGP、1980年から2006年まで、このレースが行われていたのがアウトードロモ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ(Autodromo Enzo e Dino Ferrari)です。

1979年には、イタリアGPの一週間後に、ノンタイトルのサンマリノGPが、ここイモラで開催されました。1980年には、モンツァサーキットの改修を受けて、イタリアGPをここで開催、1981年からサンマリノGPとして、2006年までイタリア国内で2つのF1GPが開催されていたのです。

1994年、ここでは、ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの死亡事故が起こり、コースに5箇所のシケインを設ける改修を受けています。

一周4.933km、コーナー数16、2006年のトップスピードは325kmのコースです。

ちなみに、このコース、ミハエル・シューマッハは7回優勝しています。すんごいですねぇ~。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

2007年05月06日

イタリア モンtツァサーキット

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、イタリアGPの開催地、モンツァサーキット。
正式名称 Autodromo Nazionale Monza (アウトドローモ・ナツィオナーレ・モンツァ)と言います。

このサーキットは、1922年に作られました。ミラノのオートモービルクラブによって、100日でつくられたんだそうです。ヨーロッパにあるサーキットのなかで、もっとも古いもののひとつです。F1が開催されたのが1950年ですから、F1が始まるずっと前からこのサーキットはあったんですね。

ここは、高速サーキット、平均速度がもっとも高いんです。2005年に、マクラーレンのキミ・ライコネンが時速370kmを記録しています。

もともとのコースは、ロードコースとバンクのついたオーバルコースからなっていました。現在は、ロードコースのみが使われています。1961年、ウォルフガング・フォン・トリップスが死亡事故を起こし、観客12人を巻き込んだことから、危険と判断されたためです。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

2007年04月30日

イタリアのF1グランプリ 2

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、イタリアF1グランプリ その2回目です。イタリアGPではなくて、イタリアF1グランプリ、としたのには理由があるんですな。

知っている人は知っている、知らない人は知らないでしょうが、1981年から2006年まで、イタリアで行われていたにも科かわらず、イタリア以外の国名を名乗るGPが行われていました。

そうです、サンマリノGPです。サンマリノ共和国の名がついておりますが、開催地は、イタリアイモラ市の、エンツォ・エ・ディノ・フェラーリ・サーキット(通称イモラサーキット)であります。正真正銘、イタリアの地なんですね。

つまり、1981年から2006年までは、イタリアで2回のF1グランプリが開催されていたわけです。

残念ながら、2007年は、F1の開催は1国1開催の原則を遵守するため、サンマリノGPは開催されなくなったのです。

そういえば、バブリーのころは日本でも2回、春、秋にF1GPを開催していたことがありましたね。

1994年と1995年に、TIサーキット英田(現岡山国際サーキット)で行われたパシフィックGPと、鈴鹿で行われた日本GPです。

1990年、大分県日田市上津江町上野田に建設されたオートポリス。ここは、1993年にF1GPを開催することをもくろんで作られたのですが、1992年に倒産してしまった。当時はベネトンのスポンサーをしたりしていたんですが、やはりバブルでしたね。
ちなみに、オートポリスはその後紆余曲折を経て、2005年に川崎重工が買収しました。

1国1開催と言っても、お金がからむF1のこと、グランプリに国名つけなきゃ、同じ国で2回開催してたんですわ。

ああ、しかし、我日本は、今年から鈴鹿に代わり富士で日本GPが開催されますね。さて、どんなGPになるんでしょうか。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

2007年04月24日

イタリアのF1グランプリ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イタリアF1グランプリ

さてさて、今年もF1が開幕して、早3戦を消化しました。ううむ、今年は若手が台頭してきておりますし、フェラーリ対マクラーレンも結構ヒートしそうな模様。

シューマッハ(兄)は引退しましたけど、新たな面白さが生み出されている、ニュージェネレーションF1に突入しましたね。

しっかし、ハミルトンて、話題独占。初の黒人ドライバーで、デビューがマクラーレン、かつすでに表彰台独占。とくりゃあ、もう歴史に名を刻むドライバーでしょ。


さて、いよいよ今年もヨーロッパラウンドがやってきます。われらのイタリアGPは9月9日です。


イタリアGPとは、F1の歴史の中でももっとも古くから続いているGPです。1950年から現在(昨年の2006年)まで、同じ名称のGPで、一年も欠くことなく行われ続けているのは、イギリスGPと、ここ、イタリアGPだけなのであります。

で、そのほとんどが、モンツァサーキットで行われています。1980年のみ、イモラサーキットでイタリアグランプリが開催されました。

ちなみに、イタリアGPは、これまでにもいろいろ心に残るレースを展開していますが、飛び切り明るい話題はこれでしょう、これ。


2005年、出走した20台、すべて完走!!


え”~~~~、F1で、全車が完走することなんてあんのか~~~!?

いや~、これ、1961年のオランダGP以来の快挙なんだって。オレ、まだ生まれてないじゃん。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

2007年04月18日

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”って、英語じゃん!?

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

こんにちは、イタル山本です。

このサイトも、このコラムも、イタリアに関するものなのに、なんでコラムのタイトルが、これなのさ! とお感じのあなた!!

おっしゃる通りでございます。一切の反論はできしまへん。ですが、ちゃんと理由はあるんです。

コラム下に、私のプロフィールをのっけているとおり、ワタシャイタリア留学を断念して、ニューヨークに行っちゃったんですわ。言ってみりゃあ、フェラーリとかランボルギーニにあこがれて、イタリアにキョーミをもったものの、基本的に語学はだ~~め。

イタリア語ぜんぜんわっかりましぇ~~ん、で、イタリア留学どころじゃぁない、ってことで、あっさり断念。でもまあ、ひょんなことからニューヨークに住むことになっちゃって、気合と根性でなんとか生きていくだけの英語はたたき上げられたってことで。

こんなことなら、えいや~~って、イタリアに住んじゃえば何とかなったかもね。まあ、夢がある限り明日が来るのが楽しくなるので、今も夢としておいとこーっと。

てなわけで、コラム中身はイタリアかぶれだけと、コラムのタイトルは英語なのよ。

ちなみに、アメリカでは、ミハエル シューマッハは、英語読みで、マイクル シューマッカーって呼ばれてます。かわいちゃんなんかも、マイクルって呼んでたよね。

日本語にすりゃあ、靴屋のマイクってとこだな。
シューマッハって、英語で言うと、シューメーカー(shoe maker)の意味だから、靴を作ってる人ってことだもんね。

高木虎之助は Toro Takagiってクレジットされてた。トラじゃなくて、トロだぜ、まったく、日本人をばかにしとるんかい。

実況中継で「彼は速い」は"He is quick." fast じゃなくてquickなんだよね。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

2007年04月12日

マリオ アンドレッティ 5 (F1とオリンパス)

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イタリア生まれのアメリカ人、マリオ アンドレッティ その5

1978年にロータスでワールドチャンピオンとなったマリオ アンドレッティ。この年のロータスは、JPSに加えて、OLYMPUSもスポンサーとなっていたのです。車体の色は黒に金のJPSカラー。John Player Specialとともに、OLYMPUSの金文字が車体に大きく描かれていました。

バブルのころこそ、多くの日本企業がF1のスポンサーをしましたが、このころの日本企業でF1のスポンサーをするというのは、通常は考えられません。オリンパスといえば、当時はOMシリーズが全盛のころ。私は日本企業のロゴが大きく車体に描かれ、さらにその車がチャンピオンになってしまったことに、日本人としてとてもうれしかったものです。

その後オリンパスは、ウォルターウルフレーシングをスポンサード。このときは、元ワールドチャンピオンのジェームス ハントがドライブしていました。残念ながら、その年のウルフは、良い成績ではありませんでした。

ちなみに、オリンパスは、アイルトン セナがロータスにいるときにもスポンサーをしています。このときもJPSカラーです。

また、近年では、フェラーリのスポンサーをしています。もっとも、近年のF1は、その経費が莫大となり、OLYMPUSのロゴもノーズ先端にほんのちょっとついているにすぎず、TVで確認することは不可能でした。

ただし、日本、アメリカ、カナダ、ドイツなど、オリンパスの本社や海外法人のある国のGPでは、GP自体のスポンサーを行っており、サーキットの各箇所にOLYMPUSのロゴが立てられており、TVでもそれが大きく映し出されていました。

日本企業で、これだけ長くF1に携わり、その時期のワールドチャンピオンやスタードライバーのチームをスポンサードした企業は、オリンパス以外にはいないでしょう。

他には、Canonがウィリアムズをメインスポンサーしていました。

おっと、アンドレッティの話題から、今回も大幅に脱線しちゃいました~。
ではまた。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

2007年04月06日

マリオ アンドレッティ 4

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

マリオ アンドレッティの4ですな

前回は、話が大きく跳んで、赤いペガサスになっちまった

さて、マリオに話を戻そう
マリオといえば、ロータス79でワールドチャンピオンになったのが、やっぱり印象的ですな。

悲劇的なワールドチャンピオン。
そう、悲劇のイタリアグランプリのアクシデントで、ロニー ピーターソンが帰らぬ人になったことによって、チャンピオンになった。

この年、1978年のロータスはめちゃくちゃ速くて、シリーズランキングトップがマリオ、2位がロニー。ロニーがポイントを取ることができなくなった時点で、マリオがチャンピオンになったのです。

こういうのって、悲しい。

この年、ロニーはきっちりNo2の仕事をしていました。スピードではマリオをしのいでいた、といわれています。しかし、自分の立場をきちんとこなすことが自分の未来につながると信じ、ロニーはプロフェッショナルな仕事をしていたのです。

ワタシがロニーの事故死を知ったのは、映画「ポールポジション」の新聞広告で。
当時、F1ドキュメンタリー映画「ポールポジション」が公開されました。

そこに、「イタリアGPでなくなったロニー ピーターソンにささげる」との文字が・・・・
ワタシは、固まりました。

ええ~、ロニーがもうこの世にいないの・・・・・・・・・・
白熊マークをつけた青いヘルメットに、黄色いつばのヘルメット、コーナーをカニ走りするロニーはもういない。

ショックだったな・・・・

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

P.S.
今回は、資料を見ないで書いています。こうなると、自分の地がでちゃいますね。

2007年04月01日

マリオ アンドレッティ 3

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、イタリア生まれのマリオ アンドレッティ、この人は、日本のマンガにも実名で登場。それも、マリオ アンドレッティ自伝とか言うものではなく、まったくのフィクションF1マンガにですな。

ご存知か、”赤いペガサス” 村上もとかにより、少年サンデーに連載されたF1マンガです。

赤いペガサスをシンボルマークとする、日系イギリス人、ケン アカバが主人公。日本人によるF1チームを結成、ケンをドライバーとして雇うという話。うむ、今でこそ、スーパーアグリF1チームが存在するも、その当時日本人によるF1チームなど、夢のまた夢。

とうとう、わが国もここまできたのか~、と感慨深い私です。

赤いペガサスを連載している70年代後半、まだまだレースというと、事故、最悪の場合は死亡事故が珍しくない時代。

ケン アカバもBMWを駆ってレース中、事故にあい、BMWが観客席に飛び込み、観客が死亡する。この事故を機に、ケン アカバはドライバーを引退し、メカニックになっていたのだ。

まあ、そんな彼がF1に復帰するのですが、彼がF1をドライブしている1年間に、このドラマの中で3人のドライバーが命を落としているのです。

さすがに実名の人物はいませんが、ロータスのモンティじいさん、ケンのチームメイト、ロック ベアード、ロック ベアードの代わりにチームに入ったぺぺ ラーセル。格段に安全性が向上した近代F1では、うそっぽい展開に思えますが、当時はそんなことはなく・・・

で、マリオ アンドレッティは、ケンとチャンピオンシップを争うことになったのです。

赤いペガサス、当時のF1ドライバー総出演してます。必読ですな。
Book Offへレッツゴー!!

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

2007年03月29日

マリオ アンドレッティ2

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”
イタリア生まれのアメリカ人F1ドライバー マリオ アンドレッティ その2


で、アメリカにわたったマリオ アンドレッティ。1964年からUSAC(後のCART)シリーズに参戦するようになりました。

彼ががF1に出場したのは、1968年からだそうで。大阪万博以前ですな。このときは、F1専任ではなくて、他のカテゴリーを縫ってのスポット参戦でした。
しかしですよ、やっぱりこの人、只者ではなかった。デビュー戦のイタリアGPでポールポジションをとってしまったー。

このときのチームはロータスでした。

マリオ以外で、デビューでのポールポジションは、ジュゼッペ・ファリーナ(私もこの人は知りませんな)、カルロス・ロイテマン、ジャック・ヴィルヌーヴだけなんだって。
イタリア生まれで、イタリアGPでF1デビューして、ポールポジション。
うむ、このサイトにどんぴしゃなひとじゃぁないですかぁ~。

ところで、前述のジュゼッペ・ファリーナ、ちょっと調べてみたら、この人もイタリア人だった。F1は1950-55年。博士号を持つインテリドライバーで、5回も優勝しているのだった。恐るべし、イタリアンパワー。デビューでポール取ったドライバーの5割はイタリアンだった。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

2007年03月26日

マリオ アンドレッティ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

F1を中心に、モータースポーツ界で活躍するイタリアを紹介しているこのコラム。

今回は、マリオ アンドレッティに焦点を当てます。

マリオ アンドレッティというと、日本人には1976年、富士スピードウィイで行われた、日本初のF1GPが印象深いですね。

マリオ アンドレッティは、アメリカ人ではありますが、イタリア生まれのグレートドライバー。F1、CART、インディ500、デイトナ500を制した、偉大な人です。

彼の家族は、レーシングドライバー一家で、息子のマイケルはCARTチャンピオン(F1ではパッとしなかったが、マクラーレンをドライブ)、孫のマルコも、IRLで参戦1年目で優勝したり、F1のテストドライバーになったりしているのです。


マリオはイタリアで生まれましたが、第二次世界大戦後に、アンドレッティ一家でアメリカへ移住、アメリカ人になったのです。ですから、イタリアのドライバーではなく、アメリカのドライバーとして、レースに参戦しています。

1959年に、ダートオーバルコースのレースから、マリオはレースの世界に入っていったのです。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである

2007年03月23日

レラ ロンバルディ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、これまで何人ものナイスイタリアンガイを紹介してきたこのコラム、いよいよ登場するのは、レラ ロンバルディ。

最強の、女性F1ドライバー。イタリアは、ピエモンテ州アレッサンドリアの出身。

彼女のF1活動は、1974年から1976年。ブラバム、マーチ、ウィリアムズをドライブしました。

彼女は、唯一の、ポイントを稼いだ女性F1レーサーなのだ。ポイント数”0.5”
なに、0.5って、て思うでしょ。

彼女は1975年のスペインGPで入賞、通常なら、6位は1ポイントが与えられるのですが、このときは死亡事故によりレースが中断、ポイントが半分になったのです。

その後、1992年に癌で亡くなったそうです。

彼女は史上2番目の女性F1ドライバー。初代は、マリア=テレーザ・デ・フィリッピスと言う人。さすがの私も、初代の人は知らないなぁ。

あと、女性ドライバーといえば、ブラバムをドライブした、ジョバンナ アマティがいましたね。ブラバムには、日本の中谷 明彦が内定していたのだが、スーパーライセンスが中谷に下りずに参戦を断念、変わりにアマティがシートを得たのよ。結局、予選も通過しなかった記憶があるなぁ。

やっぱり、レースって、男が有利なスポーツなんだろうね。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年03月20日

ジャンカルロ フィジケラ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

シリーズ、イタリアF1ドライバー、今回は、初の現役レーサー ジャンカルロ フィジケラの巻。

フィジケラは、ローマ出身。1996年にF1デビュー、すでに170回以上出走していますから、ベテランの域に達していますね。

優勝3回。今後も、勝利を重ねるでしょう。
今年も昨年に続いて、ルノーをドライブします。

デビューはミナルディから。このチーム、いい若手をどんどん発掘するんですよね。ヤルノもこのチームからデビューしてます。

その後、ジョーダン、ベネトン、ザウバーを渡り歩いて、現在はルノーです。過去2年は、チャンピオンとなったフェルナンド アロンソがチームメイト、こりゃ、やりにくかったでしょうねぇ。

さてこの人、どうもガンダム好きらしいです。フィジケラファンのあなた、ガンプラをプレゼントして、仲良くなるってのはどうですか。こういうところで、日本人としてのメリットを生かしましょう。

日本じゃあ、1980年代に、ガンプラブームってのがあって、どの店でも売り切れで手に入らない、不人気プラモと抱き合わせで販売されたこともある、ってな、薀蓄もたれながら。

物もらって、悪い気をする人はいない、つい、お返しをしたくなるのが人情というものですからね。でも、見返りを期待した、見え見えの行動は、逆に敬遠されますから、気をつけないとね。

スポーツは、サッカー大好きなんだそうで、ドライバー仲間では、一番うまいらしいです。

2007年のF1が開幕しました。フィジケラがどんな活躍をするか、楽しみです。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年03月17日

アレッサンドロ ナニーニ その3

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、アレッサンドロ ナニーニの回も、山場に差し掛かってきました。第3回。

第15戦に本グランプリを目前にしたある日、ナニーニはヘリコプターを操縦していた。さすが、F1パイロット、乗り物は何でも乗りこなすセンスを持っているのだ。

かつては、二輪ライダーが、四輪レーサーになることもよくあった。日本では、高橋 国光がその代表格。GPライダーでした。

最近では、モトGPのロッシが、フェラーリ入りするなんて、うわさもよく聞きます。

さて、話をナニーニに戻しましょう。

ヘリコプターを操縦するナニーニ。そのとき、大変なことが起きたのです。




なんと、ヘリコプターが墜落してしまったのです。

そして、右腕を切断してしまった・・・・・・・・・

しかし、とっさの家族の判断で、切断された右腕を氷に浸して病院に。見事、縫合手術に成功するのだ。

しかし、現実はブラックジャックのようには行かない。当然、右手くっついたものの、昔の右手とは違うのだ。

当時、右腕の回復を早めるため、右腕を腹部に縫合していた、と言うようなことを聴いた記憶がある。腹部と腕をつなげることで、血流を良くし、回復を促すと言うようなことだったと思う。

しかし、ナニーニの精神は、こんなことでは屈しないのだった。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年03月14日

アレッサンドロ ナニーニ その2

あなたにまたお会いできてうれしいです。
独断と偏見で綴るこのコラム、またまた、あなたに読んでいただけて光栄です。

さてさて、今日はホワイトデー。まったく、商魂たくましい日本人、まんまと手玉に取られて財布が軽くなるお父さんたち。
ワタシャ、そんな風習には負けません!!
実は、かみさんと娘に、プレゼント買うのわすれた・・・・・^^; だけなんですが~

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さてさて、アレッサンドロ ナニーニの第2回目。

波乱の1990年。

1990年も、ベネトンをドライブ。そして、あのフェラーリがナニーニに目をつける。しかし、結局は、ジャン アレジがフェラーリに入り、ナニーニのフェラーリ行きはなくなった。

一説によれば、セナ、アレジ、カペリなどと四又をかけられていたことと、単年契約であったため、自分からフェラーリ行きを蹴ったとも。これが、「フェラーリきを蹴った男」と呼ばれる所以である。

それでもって、スペインGPでは、フェラーリ1-2フィニッシュのあと、ナニーニが3位になるのだが、フェラーリと一緒にシャンパンファイトをするのがいやになって、早々に引き上げちゃったんだって。

ところが、ここで人生が大きく変わる出来事が。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年03月11日

アレッサンドロ ナニーニ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イタリアF1ドライバー列伝に登場するのは、この人、アレッサンドロ ナニーニ。

イタリア北部、シエナで生まれる。家は、有名な老舗菓子店なんだって。

1986年から1990年までミナルディ、とベネトンで活躍。若手発掘、若手を起用する2チームに所属だね。ミナルディって、弱小チームだけど、いい新人を引っ張ってくるなかなかいいチーム。イタリアのチームだしね。長年にわたって、がんばってきたけれど、いまはF1にいなくなってしまったのが、ちとさびしいね。

で、1988年にベネトンに移籍。このときのチームメイトはディエリー ブーツェン。しぶいチームメイトだ。このときのマシン、B188はなかなかバランスの良い車で、ナニーニも入賞や表彰台を経験。着実なブーツェンとのコンビネーションで、コンストラクターズ4位となる。

1989年は、日本GPで初優勝。おめでとう。

しかし、この勝利は因縁付き。レースでは、セナが真っ先にチェッカーを受けたものの、その後失格となり、繰上げ優勝。オリンピックで言えば、室伏さんみたいだな。

そして、1990年、波乱の年をむかえるのである。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年03月08日

アレックス カフィ

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

次なるイタリアF1レーサーは、アレックス カフィだ。

とはいえこの人、私はあんまり印象がないんだけど^^;

1986年から1991年までF1で活躍。所属チームは、オゼッラ,スクーデリア・イタリア,アロウズ ,フットワーク。おお、最初の2チームは、こりゃマイナーチームだぁ。どうりでこの人、印象が薄いはず。このチームについては別の機会に、解説しましょうかね。

さてさて、アレックス君、F1前の実績はと言うと、1984年、1985年は、イタリアF3に参戦、両年とも、2勝で、シリーズランキング2位。なかなかやりますなぁ。

で、1986年、イタリアGPからオゼッラでスポット参戦。予選27位の最後尾から、11位完走。やるなぁ。翌年はオゼッラからフル参戦するも、サンマリノGPがたった一回の完走でした。やっぱ、マイナーチームはつらい。

次の2年は、スクーデリア・イタリアに所属。1988年は、完走7回、最高位7位。1989年、モナコでは4位入賞。しかし、アメリカGPでは、チームメイトのチェザリスを周回遅れにしようとしたところに、チェザリスアタック(笑)、リタイヤに。出たな、チェザリス。しかし、笑っている場合じゃないよね、アレックス君にしてみればさ。

イタリアのチーム、イタリア人同士でぶつかってちゃだめでしょう。イタリアGPでないところが、せめてもの救いですね。

1991年はアロウズに移籍、しかし、ポルシェのおも~いV12エンジンを積んで、マシンはダメダメ。予選落ち多数。さらに、交通事故で両足を骨折して4戦欠場。何をやってもうまくいかないときって、人生にはあるんですよね。

1992年はアンドレア・モーダと契約(これまた、マイナーだ)。しかし、FISAへ保証金未払いのこのチーム、参戦を拒否され、アレックス君、一度もマシンを走らせることなく、F1を去っていったのでした。

F1て、いつの間にかなくなってしまうチーム、気がつくといなくなっているドライバーが結構います。厳しい世界だなぁ。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

編集後記
筆者には、イタリアって、いい加減な国って印象がある。「ウマい話には気をつけろ!スペシャル」3月14日(水) 日本テレビ 21:00~21:54 には、とんでもな~い話が紹介されるぜ。ちょっと引用しま~す。
イタリアのテレビショッピング番組に出演して詐欺行為をした女性を紹介。彼女は塗るだけでやせるというクリームを巧みな話術で販売して人気を集めた。その商品は市販されているボディークリームのラベルを張り替えただけのものだったが、彼女は30年近くも逮捕されなかった。」
なんか、汗水たらして働いているのが馬鹿らしくおもえちゃったりして^^;

2007年03月05日

エリオ デ アンジェリス

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

エリオ デ アンジェリス 1979年から1986年まで活躍したイタリアF1ドライバー。ローマ出身。

この人は、貴族家系の人。デ がつく人はそうらしいですな。で、オヤジさんは、ローマでセメント会社を営む富豪だったそうだ。

エリオのF1デビューは、1979年アルゼンチンGP。シャドウからのエントリー。このとき、まだ20歳。若いねぇ~。私の半分も生きていないじゃない。最終戦アメリカ東GP(当時は、アメリカ西GP、東GPと、アメリカで2度GPが行われていたのです。)で4位入賞。才能あるね。

でもって、1980年には、ロータスに移籍。ロータスって、名門ですよね。今はなくなっちゃったけど。

ロータスと言えば、黒いボディに金色の線、JPSカラーのマシンはかっこよかった。まっ黄ッ黄のキャメルカラーだったり、ブリティッシュグリーンにマルティニカラーだったり、スポンサーによっていろいろなカラーになってますけどね。、私の中では、やっぱりJPSカラーでしょ、ロータスは。

でもって、第2戦ブラジルGPで早くも2位。かっちょいいねぇ。

1984年には、ドライバーズランキン3位になっています。で、1985年にセナがロータスにやってきて、ロータスはセナムードに。翌年はブラバムへ移籍することになりました。

しかし、1986年5月14日。フランス、ポール・リカールサーキットでテストドライブ中にクラッシュ、マルセイユの病院で翌日帰らぬ人となってしまいました。

これは、クラッシュにより受けたダメージが直接の死因ではなく、テストであるが故にマーシャルがエリオを救出するのが遅れ、出火したマシンにしばらく取り残されていたためです。

これ以降、テストでの安全対策も、GPの時と同等レベルのマーシャルを配置することにしたそうです。

ちなみに、1994年魔のサンマリノGPでローランド ラツッエンバーガーの死亡事故が起こるまで、F1では死亡事故が発生していませんでした。このサンマリノGPは、セナの死亡事故、バリチェロも負傷など、大変なGPでした。

ちなみに、ジャン アレジは、エリオのヘルメットをモチーフにしたデザインのヘルメットを被っています。エリオはジャンのヒーローだったんだろうねぇ。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年03月02日

リカルド パトレーゼ 6

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、鉄人イタリアF1レーサーのリカルド パトレーゼの回も、今回で6回目。ついつい、印象の深い人は長くなっちゃいますね。

その後、パトレーゼは、ブラバム, アルファ・ロメオ,ウィリアムズ, ベネトンをドライブします。 この中で、やっぱり突出したのは、ウィリアムズ時代でしょう。

1991年、1992年のマンセル、パトレーゼ時代。マシンは、FW14、FW14B。
このころのウィリアムズは、ハイテクマシンの最先端を走っていました。

このマシンの主な開発は、パトレーゼ担当って言うか、マンセルはできないか。また、パトレーゼは、1988年の最終戦からウィリアムズにいたわけですから、もうこのころのマシンは、自分の子供のようなものだったんじゃないでしょうか。

そして、1991年は、ポールポジション4回、優勝2回を記録しています。シーズン後半は、マンセルの影に隠れがちになりましたけど。

で、1992年は、マンセルが圧倒的に先行。チームオーダーかなにかもあったのでしょうが、中嶋悟がTV解説で言っていたのは「腕の差」とのことです。まあ、この腕というのが、なんのことなのかというところはあるんですけどね。

そして、1993年、ベネトンに移籍。しかし、ここにはシューマッハがいたんですな。パトレーゼ、他のチームならエースを張るんでしょうけど、チームメイトがマンセルやシューマッハではチーム体制が相手よりになってしまいます。

結局、1994年はシートを失い、1995年、魔のサンマリノGPにおけるセナの事故死を見て、ドライバーを引退する決心をしたそうです。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

イタリアミニ情報:明日はイタリアのグルメ番組が放送されるよ。
3月3日(土) グルメ旅★FoodiesTV 0:30~1:00
山内千夏のデイリー・キッチン #4▽#4ローマ 今回の「デイリー・キッチン」は“イタリア、マンマの味”をテーマに、イタリア料理研究家の山内千夏さんがイタリア各地のマンマ(=母)の味をご紹介します! 第4回目は「ローマ」がテーマ。「ローマ風ペペローニ」「アマトリチャーナ」などが登場します。

2007年02月27日

リカルド パトレーゼ 5

”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

今回は、長いですね(笑)。リカルド パトレーゼその5

1978年第14戦、悲劇のイタリアGP。マーシャルのミスによるスタート。全車が停止する前に、スタートランプが点灯。

当然、前方車両は、ゼロからのスタート。一方、後方車両は動いている状態からのスタート。このため、前方車両が後方集団から押し出される形になってしまったのです。

ロニーピーターソンの車に直接接触したのは、ジェームス ハント。パトレーゼの猛ダッシュにあわてて、ドライビングミスをした、という説もあるようです。

パトレーゼの名誉が回復し、その後、最多出場を記録する鉄人と呼ばれるに至ったことは喜ばしいことです。

しかし、ロニー ピーターソンというドライバーを失ったこのアクシデントは、多くのF1関係者に暗い影を残したのです。

ジェームス ハントは引退後、BBCテレビでF1の解説をしていましたが、パトレーゼを、酷評し続けたと言われています。この、イタリアGPがずっと心の傷となっていたのでしょうか。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月24日

リカルド パトレーゼ 4

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

リカルド パトレーゼ、鉄人イタリアF1レーサーのその4です。

1978年、ロータスのロニー ピーターソンがなくなるという多重事故が起きた、イタリアGP、その事故を引き起こしたとされた、パトレーゼ。

当時は、かなりたたかれたようです。
その後の調査では、レーシングアクシデントということで、パトレーゼの名誉は回復してはいますが。

アクシデントの様子は次の通りです。

もともとは、マーシャルの、スタートランプミスに端を発します。F1では、フォーメーションラップ終了後、全車がスターティンググリッドに停止した後に、スタートが切られます。

ところが、このときは、全車が停止する前に、スタートランプが点灯してしまったのです。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月23日

リカルド パトレーゼ 3

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イタリアF1レーサー リカルド パトレーゼその3

1989年、パトレーゼを襲った悲劇とはなにか。それは、第14戦、イタリアGPで起きます。彼にとっては、ホームグラウンド、地元のGPです。

そこで彼を待っていたのは、スタート直後の多重事故だったのです。このとき、ロータスをドライブしていたフライングフィン、ロニーピーターソンが足を骨折負傷。

命に別状はないと思われていたにもかかわらず、脂肪塞栓のため、翌日病院で死亡してしまったのです。これは、イタリアの医療が劣っていたためともいわれています。

この死亡事故の原因を作ったのが、若きパトレーゼだと批判され、次のアメリカ東GPを欠場することになったのです。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月22日

リカルド パトレーゼ 2

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イタリアF1レーサー リカルド パトレーゼその2です。

デビューは、1977年モナコGP。シャドーチームから。当時は、まだ大学生。学生F1ドライバーですぜ。インテリだぁ。

パトレーゼって、スキーもプロ級なんだそうですけど、レーサーになっちゃったのね。

1978年はアロウズに移籍、第8戦スウェーデンGPで2位表彰台。やっぱり、できる人はできるなぁ。しかし、この年、悲劇がおきたのです。

人生、なかなか思うようにいかないです。しかし、あきらめてはダメです。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月21日

リカルド パトレーゼ

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イタリアF1ドライバー リカルド パトレーゼ

この人はかっこいい。私好み、しぶいっすね~。
なんつっても、出走回数256回。これ、現在、出走最多記録です。鉄人と呼ばれていました。

そして、早いし、マシン開発もうまい。さらには、超一流スタードライバーではないから、安い(笑)。史上最強のセカンドドライバーとも言われるゆえんですな。

わたしゃ、早い、強いのスタードライバーより、こういう人に惹かれるんですよ。

F1暦は、1977年から1993年。所属チームは、シャドウ, アロウズ,ブラバム, アルファ・ロメオ,ウィリアムズ, ベネトン

優勝6回、ポールポジション8回、ファステストラップ14回。初勝利は、1982年のモナコGPです。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月20日

ステファノ モデナ 5

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イタリアF1レーサー ステファン モデナのその5です。

1992年はジョーダンに移籍。しかし、1992年のジョーダンのマシンは、パフォーマンスが暇ひとつ。なんと、4度の予選落ちも経験してしまったんですな。
結局、モデナは、1993年のF1シートを得ることができなかったのです。

ちなみに、1992年のジョーダンは、ヤマハV10エンジンを搭載しています。ですが、昨年のフォードV8エンジンのマシンをベースにしていたため、ラジエターの容量不足によるパワー不足や、ギアボックスの問題などが出たようですね。

う~ん、才能や力があっても、めぐり合わせや境遇によって、人生は大きく変わるものです。壊しやと言われたチェザリスは、長くF1シートを確保できた一方、才能を期待されたモデナは、シャイで根暗なイタリアンとして、F1を去っているのです。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月19日

ステファノ モデナ 4

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

さて、イタリアF1ドライバー ステファノ モデナその4です。

1989年と1990年はブラバムをドライブします。このときは、1989年モナコGPで3位、1990年アメリカGPで5位。ストリートコースで強いですね。

1991年はティレルホンダに移籍、中嶋 悟のチームメイトであったのは、前述の通りです。この年、ホンダエンジンを手に入れたティレルは、昨年の018を発展させた019を投入。ですが、昨年までのフォードコスワースV8に比べて思いホンダV10により、バランスが悪くなったとか、シリーズ後半は、チームの開発が芳しくなかったなど、今ひとつの結果だった。

前年のティレル018は、ハイノーズ、フロントウイングはアンへドラルウイングという、革新的なデザインで、なかなかの性能を発揮していた。ホンダエンジンを得た1991年、かなり期待していた筆者は、残念な思いをしたものです。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月18日

ステファノ モデナ 3

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イタリアF1ドライバー ステファノ モデナの3回目

2年目は、ユーロブルンというチームから参戦したところまでを前回書きました。
さて、ユーロブルンて 何? と思う方、いらっしゃいますよね。若い方には。

当時、F1中継を見ていた人も、よほどのマニアでない限り、忘却の彼方に飛んで行っているんじゃないかな。

ユーロブルンも、イタリアのチームです。1988年から1990年まで参戦しています。この間、入賞はゼロ。しかし、1988年は、モデナが4回、チームメイトのララウリが2回、完走しています。

この年のエンジンはフォードDFZ。ER188という車でした。

しかし、筆者は、このチーム名は記憶にあるものの、どんなマシンだったのかまったく印象にありません。1989年、1990年は決勝にも出てきていませんし。

しかし、幸にして、ユーロブルンから離れたモデナは、ブラバム、ティレル、ジョーダンへ渡り歩いてゆくのです。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月17日

ステファノ モデナ 2

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

シャイで根暗なイタリア人ドライバ ステファノ モデナ その2

では、モデナのF1での戦歴を見てみましょう。

出走回数は71回、 1987年-1992年まで。通算ポイント17。
ちなみに、中嶋悟は、出走回数74回、1987年-1991年。通算ポイント16。

ここだけ見ると、中嶋と大差ないように見えますね。
しかし、モデナは、1989年ブラバムで、モナコGP3位、1991年ティレルで、カナダGP2位に入っており、2度表彰台に立っています。ですが、総合ポイントで、中嶋と1ポイント差。F1苦労人なんですね。

1987年、インターナショナルF3000でチャンピオンをとった後、同年、最終戦オーストラリアGPからブラバムに乗ってF1に参戦しました。翌1988年は、ユーロブルンからフル参戦しています。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月16日

ステファノ モデナ

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

ステファノ モデナ

名前からして、イタリア出身の人物であることは明白。
陽気で明るいイタリア~ン、ではない、異色のイタリアF1ドライバー。

筆者は、ティレル時代、中嶋 悟とチームメイトだったころのモデナの印象が残っています。中嶋よりも早かったのが悔しかった。1991年、ホンダエンジンを積んだティレルですね。

わたしゃ、日本グランプリを鈴鹿まで見に行きましたよ。中嶋のラストランを見に。しかし、中嶋と間違えて、モデナの写真を撮っちまった。^^; ファインダー越しで、ヘルメットやカーナンバー、よく見えなかった。


もちろん、スタードライバーではないから、あまりこの人の情報はないです。なので、古舘中継や、F1雑誌での紹介ぐらいが、モデナを知る術でした。

で、何が異色かというと、イタリア人なのに、シャイで根暗だったそうです。あ、あくまでも、上記の類の情報でそういっていただけです。私は、よくわかりませんけどね。でも、無口で物静かな性格だったようです。

ですが、「シャイで根暗なイタリアン」て、耳に残るでしょう。本人にとっちゃ、あまりうれしくはないかもしれないですけどね。だけど、こういった枕言葉で、人の記憶に残ったり、印象付けを行うことができるんですから、我々も実生活で大いに活用したいですね。


しかし、イタリア人は陽気で明るいとか、九州男は大酒のみとか、ステレオタイプのイメージって、恐ろしい。みんながみんなそんなわけないじゃん。

オレの知り合いに、ビール一杯で、心臓がバクバクする、九州男がいるもんね。


つづく

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月15日

アンドレ ア チェザリス 3

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イタリアF1ドライバー アンドレア デ チェザリス その3

で、壊しやチェザリスは、お金でF1のシートを買っていたという話を前回したわけなんですが、ほんとにそれだけで、長期にわたってF1にい続けることができたのか、という疑問もあるわけです。だって、金があるけど、それ以外なんの恩恵ももたらさない、いや害をおよぼすような人
とは、仕事したくないでしょ、普通。

お金があったって、車を直すには人間の工数がかかりますよ。時間もね。単純にお金じゃ換算できないし、結局良い仕事ができるかどうかって、人間関係がものをいう部分で大きいですから。

で、私が勝手に考えたのは、チェザリスって、じつはとってもナイスガイなんじゃないかと。陽気で明るいイタリアン。人間的には、誰からも好かれる、そんな好人物ではないかって。

世の中、なんかぱっとしないし、ドジばっかり踏んでいるけど、憎めない、愛されるやつって、いるじゃない。ああ、あいつならしょうがないな~って、許されちゃうような。チェザリスも、そんな人種ではないかと想像するわけです。

ナイスガイであればこそ、逆にプレッシャーに負けて車を壊してたとかね。だいたい、いい人って、大物になれないんだよなぁ。

ほかのスタードライバーのように、マスコミへの露出が多くないので、私自身は、チェザリスの人柄については、ほとんど知りません。それをいいことに、このような勝手な推論をして楽しんでいるんですね。

もしあなたがイタリアに留学でもして、車好きのイタリア人と話すことがあったら、「チェザリスって知ってる?どんなヤツ?」って、聞いてみてくださいよ。で、その結果を教えてください。日本では、良い成績を出せなかったとしても、日本人ドライバーの情報は広く伝えられます
から、イタリアなら、チェザリスの話もたくさん伝えられているんじゃないかな。

そんなチェザリスですが、1991年に新興チーム、ジョーダンに移籍すると、安定度を増すのである。たとえば、モナコで予選10位、カナダの入賞、ベルギーでは、エンジントラブルでリタイアするも一時2位でセナに迫る。マシーンを壊したら罰金、という契約があったとか。あの年
は、筆者も「え、これがあのチェザリス!」なんてびっくりしていたものです。

所属チーム: アルファ・ロメオ,マクラーレン,リジェ, ミナルディ,ブラバム, リアル,スクーデリア・イタリア,ジョーダン, ティレル,ザウバー
出走回数 208

チェザリスの巻 完


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月14日

アンドレア デ チェザリス 2

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

アンドレア デ チェザリス

イタル山本です。前回に引き続き、イタリア人F1ドライバー アンドレア デ チェザリスの2回目です。

で、壊しやチェザリスですが、15年もF1のシートに座り続たのは前回お話したとおりです。


なんでやねん。


チェザリスは、スポンサーで有名な、マルボロの重役の息子であり、資金が潤沢、よって、資金が必要なF1チームからシートを得ることができたそうです。

うーむ、マシンが壊れると、修理や何やらで、お金がかかりますけど、マシンをぶっ壊す以上に、チェザリスの持ち込むお金が魅力的だったということですかね。こりゃあ、すごいや。

しかしですねぇ、担当のエンジニアたちはかなわないだろうねぇ。いくらチームにお金が入ると言ったって、チェザリスがマシンを壊しても特別ボーナスはポッポには入らないでしょうし。

やっぱり、F1は、実力だけじゃなくて、マネーがものを言う世界ですな~。

そういえば、井上隆智穂という日本人F1ドライバーがいましたね。1994~1995年です。彼はビジネスとしてF1に参加、スポンサーマネーを引っさげて、シムテックやフットワークをドライブしていました。この人、ほとんど話題にされない昨今ですけど、ビジネスという視点でF1に関わったところが、妙に筆者は引かれるのです。日本メーカーの後ろ立てなく、自力でスポンサーを集め、シートを買ってしまうその切り口や行動力にそそられるものが・・・

またまた脱線しました。
まだまだ続くチェザリスのお話。いけいけ!イタリアンレーサー!!


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月13日

アンドレア・デ・チェザリス

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

アンドレア・デ・チェザリス

イタリアF1ドライバー F1活動は1980~1994

日本での第二次F1ブームを知る人には、チェザリスって、忘れられないドライバーですよね。(筆者にとっては、1976~1977年当時が第一次F1ブームなのだ)

何でかッツーと、やたらと車を壊す。クラッシャーとか壊しやとかの異名を持ってるもんね。フジテレビの古舘伊知郎が、「犬も歩けばチェザリスに当たる」だの「サーキットの通り魔」だのとほえておったのが懐かしい。

ちなみに、古舘さん、ルネ アルヌーのことは、「妖怪 通せんぼじじい」なんていっていたからな~。こういう比喩で、おねえちゃんでもドライバーの特徴がわかるようにした解説は、やっぱり古舘さんならではだねぇ。

それはさておき、生涯完走率34%の壊しやチェザリスですが、それにもかかわらず出走回数208回、15年間で12チームも渡り歩いているんですなぁ。

ふつー考えりゃあ、マシンぼんぼん壊すヤツ、雇わないと思うんだけど、そこがこの人のすごいとろだねぇ。

つづく


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月12日

イヴァン カペリ

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

イヴァン カペリ

イタリアF1ドライバー

1985年~1993年に活躍したドライバーです。イワン カペリと、日本語でかかれることもあります。同一人物です^^;。所属したチームはティレル, AGS,マーチ, レイトンハウス,フェラーリ, ジョーダン。

ちょっと調べたところでは、1983年にイタリアF3でチャンピオン、1984年にヨーロッパF3でチャンピオンになっています。速かったんですね。

1985年から、ヨーロッパF3000に参戦、この年にティレルからF1デビュー。
1986年には、ヨーロッパF3000チャンピオン。ヨーロッパツーリングカーや、AGSからF1にも2戦参戦。この人、器用なんですねぇ。

F1レギュラー参戦は、1987年、マーチから。この年も、BMWでのツーリングカーレースに参戦してます。ひょえ~~、F1やりながら、他のレースにも出るなんて、たいしたもんです。

筆者は、カペリといえば、レイトンハウス時代のイメージが強いですね。レイトンハウスは、1987年から、マーチにスポンサードしていたんだけど、1989年にマーチを買収、1990年から、チーム名もレイトンハウスにしたんですわ。

あの、ペーパーミントグリーン(レイトンブルーと言うんだそうだ)の車体が懐かしい。いやあ、あのころは、バブルでしたからね~。日本の資本がF1をどんどんスポンサーしている時代。

1991年には、レイトンハウスの社長が、不正融資事件で逮捕されたりして、チームのオーナー権を放棄、1992年に、再びマーチになりました。

おっと、いけねぇ。カペリの話題がいつの間にやらレイトンの話になっちゃった。
カペリさん、いいチームや車に恵まれず、ぱっとした成績をF1では残せなかったのね。どうしても、レイトン事件の印象が強いのでした。


文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月11日

ヤルノ トゥルーリ

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

ヤルノ トゥルーり

イタリアF1ドライバー

2007年現在、トヨタのドライバー

実は彼、優勝回数1回なんだけど、それがあなた、なんとモナコなんですよ、モナコ。
2004年のモナコGP。

モナコって、誰もがあこがれる、特別なサーキット。セナやシューマッハなどのモナコマイスター以外は、おいそれと勝つことができない、あの市街地コースで優勝ですぜ。当時ヤルノはルノーで走ってましたね。

で、このモナコ優勝が初勝利で、現在(2007.2)における唯一の勝利です。

フランス人ドライバー、オリビエ パニスも、実はモナコで勝っている。時々、地味に、着実に走る人が勝っちゃうんですよ、モナコって。

彼は、ミナルディーから1997年にF1デビュー。当時は、片山右京がチームメイト。
右京さん、ヤルノのことをかわいがっていたみたいだね。

2005年には、アメリカGPで、トヨタ初のポールポジションを獲得。2009年までトヨタと契約しています。

がんばれ、ヤルノ!

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月10日

ミケーレ アルボレート

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

ミケーレ アルボレート

イタリアF1ドライバー フェラーリドライバー

この人、渋いドライバーにカテゴライズできるな。
で、調べたら、2001年に、ル マン向けの耐久レースで事故のために亡くなっていたんです。知らなかった。当時、筆者はアメリカにいたので、ニュースを耳にしなかったんだね。アメリカではF1て人気ないから。

さて、ミケーレですが、F1は1981 - 1994まで活動。その間渡り歩いたチームは、
ティレル, フェラーリ,ラルース, アロウズ,フットワーク,ローラ, ミナルディ

名門フェラーリに乗ってるんです。他は、中堅チームで、今はないところばっかりです。優勝回数5回、ポールポジション2回、ファステストラップ5回。
いい仕事をする、信頼できるヤツ、そんな人だったんじゃないでしょうかね。

F1に来る前は、1980年ヨーロッパF3でチャンピオンになっています。F1 2年目の最終戦、アメリカGPで初優勝。やっぱり速い人なんですね。

1985年は、フェラーリをドライブ、マクラーレンのアランプロストと優勝争いを演じました。

F1では、速いドライバーが必ずしも成功するとは限らないんですよね。強いドライバーと速いドライバーはイコールではない。
筆者は、スタードライバーより、こういう渋いドライバーが好きなんですけどね。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月09日

アレックス ザナルディ

イタル山本の ”ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ”

アレックス ザナルディ

イタリアF1ドライバー

筆者には、F1ドライバーよりも、CARTドライバーの印象が強いです。
この人、F1ではあまりぱっとしなかったですね。F1は1991 - 1994 および1999年に参戦しています。

F1には、1991年にジョーダンからデビュー、1993年には、ロータスのレギュラードライバーに。しかし、ベルギーGPフリー走行でクラッシュ、怪我のためシーズン半ばで戦線離脱。1994年もぱっとしませんでした。

1996年から、アメリカのCARTに参戦。ここでブレーク。ばんばん暴れまくりの大活躍。1997年、1998年は2年連続、シリーズチャンピオン。この時期筆者はアメリカに住んでいたため、リアルタイムでTV観戦していました。
なんで、こんなにぶっ飛んでるの、ってぐらいアクロバティックでぐいぐい抜いていく。

正直、この時期、F1中継よりもCART中継の方が面白かったですな。近代F1は、抜きつ抜かれつ、というシーンはほとんど見られませんから。

で、CARTでの活躍を経て、1999にウィリアムズからF1に復帰。しかし、この時期のF1のハイテク化に対応できず、思うような結果が残せなかった。これでF1を退くことに。

地元、ヨーロッパでは花開かず、アメリカの地で頂点に立ったんですね。

1年のブランクの後、2001年 CARTに復帰するも、クラッシュで両足を膝上から切断してしまう。しかし、アレックスの情熱は彼をレース界に復帰させたのだ。
2003年からのツーリングカー選手権などに参加しています。

顔は、デビルマンみたいだが、燃える男である。

文責:イタル山本:若かりしころ、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たした。F1やWGP好きのオヤジである。

2007年02月08日

ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ

ザ イタリアンパワー イン モータースポーツ

モータースポーツのメッカといえばヨーロッパ。中でも、フェラーリ、マセラティ、ランボルギーニ、などのスーパーカー王国イタリアは、モータースポーツになくてはならない国でしょう。

さて、このコラムは、自称F1オヤジであるところの、私、イタル山本が、、イタリアにかかわるモータースポーツについて、F1を中心に、独断と偏見に基づいて綴ります。お気楽にお付き合いくださいね。

さらに、イタリア留学やホームステイを考えている、車好きのあなた、そう、あなたですよ、あなた。イタリアとくりゃあ、モータースポーツの本場、車好きなら、レーシングドライバーやライダー、F1やWGPのことぐらい知らなきゃね。

「おお、このドライバーは、日本じゃあ、○○○って言われてたぜ!」

なんていう会話も、このコラムを読めばばっちりですよ。


ではでは、簡単に私の自己紹介をさせてきただきましょう。

1960年代生まれ。若かりしころは、イタリア留学を夢見るも果たせず。90年代後半をニューヨークで過ごし、その間結婚、新婚旅行イタリアならぬ日本の温泉。その後アメリカで生まれた子供と3人で、イタリア旅行を果たしました。F1やWGP好きのオヤジです。

池沢さとしのサーキットの狼がはやった、スーパーカーブームの時は、中学生。地元が、通称スーパーカー通りと呼ばれた環状8号線の近くだったため、毎日チェッカーモータースやオートロマンにスーパーカーを見に行っていました。

1976年、1977年に富士スピードウェイで開催されたF1を、リアルタイムで知る世代です。もちろん、当時はサーキットに観戦に行くことなでできませんから、TVの前にかじりついていました。

1976年、雨の中、チャンピオンシップトップの、フェラーリのニキ ラウダが、大雨での走行は危険と判断して自らリタイア。ロータスのマリオアンドレッティが優勝、チャンピオンシップ2位であったマクラーレンのジェームス ハントが3位に入り、チャンピオンシップを逆転、ハントが1976年のチャンピオンシップを制しました。

1977年は、ニキ ラウダに代わりジル ビルニューブのドライブするフェラーリが観客に突っ込み、死者がでるというアクシデントが発生しました。これにより、それ以降、日本でのF1開催が見送られることになりました。再び日本でF1が開催されるまでには、1987年の鈴鹿まで待たなければならなかったのです。


それでは次回より、イタリアに関係の深いドライバーたちを紹介していきましょう。


ちょっとお知らせ

CS放送 フジテレビ721では、F1 LEGENDS THE BEST GP ’83-’84という番組を放送しているのはご存知かな? 次の土曜日(2007.2.17)は、いよいよ「1984年第14戦・イタリアGP」 が放送されるぞ。